緑のお医者の徒然植物記

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緑のお医者の徒然植物記

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2025/06/25

シロイチモジヨトウ No.764

 シロイチモジヨトウ

チョウ目 ヤガ科

1980年以降発生量が増えた害虫

シロイチモジヨトウの成虫は体長約12ミリ、開帳約30ミリ

灰褐色で黄褐色の円形斑紋が二対ある。

昼間は葉裏や雑草地に潜み、夜間に活動を始めます。

正確にはヨトウムシと言うガの幼虫の一種で、ヨトウムシと呼ばれることもある。

シロイチモジヨトウはネギの主要害虫とされるが、キャベツ、ハクサイ、レタス等の野菜や花き類も加害する広食性の害虫です。

卵は卵塊(らんかい)で産み付けられ、表面は灰褐色の鱗毛で覆われる。

サツマイモに出るシロイチモジヨトウは葉を食害する害虫で、特に若齢幼虫期に防除することが重要です。

全国的に発生が見られ、特に温暖な地域で多く発生する。

9月から10月に発生が多いとされています。

夜行性で日中は葉の裏などに潜んでいるため、卵塊や分散する前の若齢幼虫を早期に発見し、捕殺することが効果的ですが、中、老齢幼虫になると薬剤の効果が低くなるので注意が必要です。

薬剤抵抗性の発達を避けるため、同じ系統の薬剤を連続使用しないこと。

ローテーション散布を心がける。

また、徳島県立農林水産総合技術支援センターの病害虫防除所のWebページなどで最新の発生状況や、防除情報を確認することも推奨されている。

防除法

フェロモントラップ

フェロモントラップとは、昆虫が仲間を呼び寄せるために出すフェロモンを人工的に合成し、それを誘引剤として用いることで特定の害虫を捕獲する装置のこと。




フェロモントラップの種類

性フェロモントラップ

異性を誘引するフェロモンを利用し、オスの成虫を捕獲する。

集合フェロモントラップ

仲間を呼び寄せるフェロモンを利用し、特定の害虫を集める。

フェロモントラップは化学農薬の利用量を減らすことができ、環境への負荷を軽減できる。

人や家畜に影響を与えにくく、安全に使用できる。

害虫の発生状況を把握し、適切なタイミングで防除を行なうことで効率的な防除が可能になる利点がある。

注意すること

風通しの良い場所や光の影響を受けにくい場所に設置する必要があります。

作物の株よりも高い場所に設置する必要があります。

捕獲された害虫の数を定期的に確認し、必要に応じてトラップを交換する必要があります。

フェロモントラップは農業分野だけでなく、食品工場や倉庫など、様々な場所で活用されています。







2025/06/22

政府軍部の暴走戦争 No.763

 戦争は軍部の暴走から始まる


多くの国民や他国民を犠牲にした太平洋戦争は、政府特に軍部が自らの判断で戦争を拡大させ、国家や国民の意思を無視し、異なる方向へ進んだ悲劇である。

昭和天皇は即位直後から軍部の暴走に苦悩していたとされ、軍部の独走を止められなかった事が後の戦争へと繋がったと、昭和天皇実録に記されています。

1937年から1945年の日中戦争は、次第に泥沼化し、最終的には太平洋戦争へと発展して行った。

軍部の独走によって、多くの犠牲者が出る戦争へと拡大したのです。

戦前の日本は形式上立憲君主制でしたが、実際には天皇が強い権限を持っていたとする見方と、天皇はあくまで象徴であり、実際の決定は政府や軍部が行っていたする見方があります。

昭和天皇の戦争責任を巡る議論は、多角的な視点からの検討が必要であり、未だに結論が出ていない問題とされています。

戦後80年が過ぎたことを思えば、その結論が出ることはないのかも知れません。

日本の戦争首謀者は東條英機(政治家)とされ、昭和天皇が裁かれなかったのは主に、アメリカの占領政策上の判断によるもので、天皇の存在を温存し、利用する目的があったからとされています。

アメリカは天皇を象徴として利用することで、日本国民の支持を得やすく、スムーズに占領政策の遂行が可能になると判断したとされています。

天皇を戦争責任者として裁けば国民の反発を招き、占領政策が困難になる恐れがあったと言われています。

第二次世界大戦後の日本を占領した、連合国軍最高司令官のマッカーサー元帥は、天皇を戦争責任者として裁くことに反対し、不起訴とするよう強く主張しました。

マッカーサー元帥は、政治的な道具として天皇を利用することを考えいた。

その自身の考えに反すると考え、マッカーサー元帥は天皇を裁くことに反対したのです。

これらの理由から昭和天皇は、東京裁判で裁かれることなく、戦争責任を問われることもなかったのです。


天皇に威厳があったかどうかは分からないが、軍部の暴走が戦争拡大を招いたのは間違いない事だろう。

軍部の暴走を思う時、これから先自衛隊が米軍と共に暴走しない事を願わずにはいられない。










2025/06/21

沖縄慰霊の日 No.762

 今年は戦後80年


6月23日は沖縄県が制定している慰霊の日である。

沖縄県で戦争の悲劇が再び起こることがないように

平和であるように

慰霊の日は沖縄県で定められた公休日です。

この日は平和を祈念する日で、県内の多くの学校や公的機関などは休みになります。

毎年、糸満市摩文仁の平和祈念公園で、沖縄全戦没者追悼式が開催されます。

学校では、平和学習として慰霊の日を中心に、ひめゆり平和祈念資料館や平和の礎などの史跡を訪れる活動が行われています。



慰霊の日は沖縄県にとって非常に重要な日とされ、県民が平和の尊さを改めて認識する平和を祈る日として広く認識されている日です。

沖縄は、1945年4月の米軍上陸によって直接の戦場と化し、県民は重大な犠牲をうけました。

軍当局は、沖縄県民を無残な「決戦」に引きずり込み、二十数万人(軍人含む)が生命を奪われました。


この中には、迫りくる米軍の戦闘のさなかに同胞の日本軍によってスパイ容疑、その他の勝手な口実で虐殺された県民も少なくなかった。

「治安維持法」による送検者は75,681人、逮捕者を含めれば数十万人にのぼる多くの人々が、暗黒政治の弾圧で苦しめられた事も忘れてはいけない。

この事は軍事的、警察的な弾圧政治であり、主に絶対主義天皇制と侵略戦争に反対した日本共産党とその党員の多くが弾圧に苦しめられ、獄中で生命を奪われた者も少なくない。

権力がいかに正当に使われなければならないかと言うことであるが、その権力組織を選び選択するのは国民である。

しかし、昔も今も国民はその主権を投げ捨てているように思えてならない。







2025/06/18

梅雨入り前の夏日和 No.761


走馬灯のように


月日の流れは早いものだと思う出来事は、14年生きた我が家の猫の旅立ちでした。

残されたもう一匹の猫は、まだ数日しか経っていないのもあるが、さ迷うかのごとくうろうろと探し回っている。

人間から見ても、その行動から寂しさが伝わってくる。

なんともしがたい思いであるが、優しく寄り添ってあげるほかすべがない。

数日食欲も無かったが、今までとは違う物に変えたりして与えたら少しずつ食べるようになった。




窓辺でぼんやり外を見て、その場で寝て、、、

今はそんな毎日

トイレや部屋のそうじ

亡くなったは猫の匂いがついてる物は全て洗濯

ノミの発生を抑えるための毎日の清掃と敷物の交換

死に向かっている猫にはノミが大量に発生しやすい。

薬を付けてもほとんど効果がない状態になる。

他に猫がいる場合は、亡くなった猫のノミ対策を行なう事が大切です。

残された猫は姉

旅立ったのは弟

まだ弟の死を認識していないようです。

しばらく寂しい日は続くだろう。


後記
残された黒猫も10月永眠しました。











2025/05/31

マリーゴールド種まき育成 No.760

 マリーゴールド

4月9日種まき

2週間程で芽が出てきます。


1カ月後3号ポットに植え付け



その後、花一輪だけ咲くまで育てます。



種まきから約50日で花一輪だけ咲く

鉢植えにする場合は、3株(5号鉢)くらいを一緒に植え付けると良いでしょう。


「4カ月後のマリーゴールド」


★関連ブログ
マリーゴールドNo.480








2025/05/21

平和でこそ自由 No,759

 平和である事が重要


百里平和公園は航空自衛隊百里基地の中にある。

一坪運動の民有地は、およそ1970年代に全国の基地に反対する人々に一坪ずつ所有してもらった、いわゆる一坪地主運動である。


   「百里平和稲荷」

広さ約5000平方メートル、基地に反対する地元の人達が防衛庁に売り渡すことを拒み、この土地が残った。

現在は2018年に設立された一般社団法人「百里の会」が管理、見学を希望する場合は百里の会へ


       

シーサーもないてるさぁ〜

瀬長亀次郎


瀬長亀次郎は、太平洋戦争後のアメリカ合衆国による沖縄統治下において、沖縄人民党を組織し、米国による統治に対する抵抗運動を行った。

返還前の沖縄那覇市長を歴任、元衆議院議員

ジャーナリストとしても知られている。

沖縄の祖国復帰と平和な社会の実現を目指して命がけで闘った人物である。

  「瀬長カメジロー」



不屈館

瀬長亀次郎はどんな障害にあっても、不屈の精神でアメリカ政府に抵抗し、「アメリカが最も恐れた男」として語り継がれています。

不屈館は、瀬長の功績を讃えるための資料館ではなく、彼を愛し支えた民衆の歩みが学べるところです。



平和だからこその自由

憲法フェステバル

憲法記念日は、1947年に日本国憲法が施行された事を記念して制定された国民の祝日で、1948年に制定され毎年5月3日に祝われます。



憲法フェステバルは1987年(昭和62年)の憲法施行40周年を機に第1回が開催され、その後毎年憲法に関するイベントとして定着しました。

チケット収入やカンパによって運営されています。

アンネのバラ





ナチスによるユダヤ人迫害によってこの世を去った、アンネの日記で知られるアンネ・フランク

アンネ・フランクの父親が亡きアンネを想い、育種家に作らせたバラ

アンネ・フランクの形見と名付けられたバラ

アンネのバラは平和のシンボル

1929年6月12日にドイツ(フランクフルト)で生まれたアンネ・フランクは、ナチス政権の迫害を逃れるため、オランダに亡命しました。

アムステルダムの隠れ家で2年間を過ごしました。

そこで世に知られている有名な「アンネの日記」を書きました。

アンネが亡くなった後、父親によって出版されました。


1945年に強制収容所でチフスのため15歳の若さで亡くなりました。


糸数アブチラガマ

沖縄戦の実相を現在に伝える糸数アブチラガマ

太平洋戦争では多くの若者の命が奪われました。




糸数アブチラガマは、沖縄本島南部の南城市にある自然洞窟(ガマ)で、もともとは糸数集落の避難指定豪であった。

戦時中沖縄の人々が戦火の中、生活していた洞窟です。

しかし戦場が北部から南下するにつれて、日本軍の陣地豪や倉庫として使用されるようになり、その後陸軍病院の分室となっていった。

軍医、看護婦、ひめゆり学徒隊が配属され、全長270㍍のガマ内は600人以上の負傷兵で埋め尽くされました。



ガマの中には井戸らしきものがあった。




ひめゆりの塔

ひめゆりの塔は、沖縄戦末期に沖縄陸軍病院第二外科が置かれた豪の跡に立つ慰霊碑です。

現在の沖縄県糸満市にある。



1945年3月から3ヶ月余り、日米両軍は沖縄で住民を巻き込んだ地上戦を繰り広げました。

日本軍は米軍の本土上陸を1日でも遅らせるために、豪に潜んで長期戦に持ち込む持久作戦を採りました。

この作戦が沖縄戦を長引かせることになり、日米の戦死者は20万人以上にのぼりました。

その内の6割に当たる12万人は沖縄県民であった。

日本軍は兵力不足を補うため、沖縄県民を根こそぎ動員したのである。

中等学校や師範学校などの10代の生徒まで戦場に動員したのです。

生徒、教師240名が看護要員として動員され、その内136名が死亡。

動員された2校の愛称が「ひめゆり」であったことから、戦後彼女たちは「ひめゆり学徒隊」と呼ばれるようになりました。

その2校は、那覇市安里にあった「沖縄師範学校女子部」「沖縄県立第一高等女学校」である。