緑のお医者の徒然植物記

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ラベル #梨、#果実、#松戸覚之助、#二十世紀梨、#幸水、#ふじリンゴ の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
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2021/03/10

日本の果物は世界一 No,400

 世界一の美味しさを作り出した日本の果樹

何気なく食べている果物ですが、様々な物語がある。

様々な品種の掛け合わせによって、優れた特性を持つ品種が作り出されてきました。

日本の果物は、世界に類を見ないほど美味しいと言えるでしょう。

これは日本人の味覚の繊細さを証明しているかのようでもあります。

✻こんな事を言ったら世界中から批判を浴びるかもしれませんね。

lf you say this, you may be criticized from allover the world.

世界中で日本の果樹が、栽培生産されている事も少なくありません。

✿ふじ「リンゴ」

「ふじ」リンゴが生まれたのは1939年昭和14年、当時の農林省園芸試験場でした。

「国光」に「デリシャス」を交配して育成され、1962年(昭和37年)に「ふじ」と命名されました。


✻「デリシャス」と言う名が付いた逸話

米国アイオワ州の果樹園を経営していたジュツセ·ハイアット氏が、明治3年に果樹園を見回っていたところ、樹列からはみ出している1本のリンゴの木を見つけ、それを切り捨てました。

しかし、切られた樹株からひこばえが伸びてきたのを見つけて、それをまた切り捨てました。

それでも尚、ひこばえが伸びてくる樹の生命力に感動した彼は、この樹を育てて果実を実らせて見る事にしました。

それから大事に育てた樹は10年後に果実をつけました。

その果実を頬張った彼はこれは「世界最高だ」と感激しという事で、その後リンゴは種苗会社スターク兄弟商会の手に委ねられ、1895年(明治28年)に世に出る事になります。

リンゴを食べた当時の社長が「おおーこれは美味いデリシャス」と叫んだことで名前が決まったという事です。

✿国光(こっこう)

国光は西洋リンゴの品種名
アメリカ、バージニア州原産で1868年か1871年のいずれかに、日本へ導入されたとする2説がある。

日本では約100年間に渡ってリンゴ生産の品種として、広く栽培されたが、価格暴落と品種の更新などが要因となり、主力品種から消えた。


なぜ「ふじ」品種の人気が出たのか。

それは甘さと爽やかな酸味と、パリッとした歯ざわりだったのかも知れません。

その甘さは年間の気温が高い事に依存しています。

気温が高い地方で育った「ふじ」には、糖度が高くなる傾向があります。

そのため、東北地方の南部や長野県の平坦地で生産された果実は、糖度が高くなります。

一方、青森県など寒冷地方で生産されたものは、やや糖度が低くなります。

しかし、果実のしまりがよく貯蔵するには良い。

逆に西日本の暖地で作ると、実のしまりが悪く、すぐに軟化してしまいます。

その事から果実には適した地域があるのです。


                                            「ふじ」


✿幸水(梨)

「幸水」は1941年(昭和16年)当時の農林省園芸試験場で「菊水」と「早生幸蔵」の交配実生から育成されました。

1947年(昭和22年)に初結実し、1959年(昭和34年)に「幸水」と命名されました。


                                            「幸水」

この品種の親は、「青梨の菊水」と「赤梨の早生幸蔵」の品種です。

この区別を青梨が「二十世紀」赤梨が「長十郎」と表現される。

青梨の特性は、日持ちがすることですが、赤梨は日持ちがしません。

「幸水」は青梨と赤梨の良い所を取って生まれてきた、中間種とも言える品種です。

因みに赤梨と言う理由は、外観が赤褐色であるためですが、これは果実表面にコルク層が発達するため褐色になるからです。

「幸水」はより大きなものが甘く、糖度と大きさが比例するので、作ると時は摘果をしっかり行って、着果数を制限し、大玉を収穫するようにしましょう。

より大きなものが甘いと言う事なので「幸水」を買う時のポイントにもなります。

✿長十郎

明治26年に神奈川県で発見された「長十郎」は昭和初期までが全盛期

今では殆ど見かける事も少ない。


                                    「長十郎」


✿二十世紀梨

1888年(明治21年)に千葉県葛飾郡大橋村、現在の二十世紀が丘梨元町で、当時高等小学校2年(13歳)の松戸覚之助少年によって発見されました。


                              「二十世紀」

分家の石井佐平家を訪れた際、ごみ捨て場に芽が出ている梨の苗木があるのを発見した。

覚之助(かくのすけ)少年は、分家の石井佐平より苗木を譲り受け、自宅に植えました。

試行錯誤の末育った梨の木は1898年に遂に結実した。
覚之助23歳の出来事である。

その後、覚之助は梨の栽培生産を続けて行くのである。

後に、覚之助が育てた原木は1935年(昭和10年)国の天然記念物に指定されるが、太平洋戦争での松戸を襲った空襲により傷つき、1947年(昭和22年)に枯死してしまう。

(1875〜1934年、昭和9年)覚之助は二十世紀梨の普及に生涯を捧げたのである。

戦後、覚之助の農園周辺は覚之助の業績を記念して「二十世紀が丘」と言う地名となった。

後に、この地が細分化され、二十世紀が丘梨元町になった。

枯死した原木の一部が松戸市立博物館に市指定文化財として保管されている。


            「二十世紀梨、発祥地の碑」