非人道的支配
関東大震災は大正12年(1923年)9月1日、今から102年前に発生しました。
関東大震災のどさくさの中、朝鮮人や中国人の虐殺が行われた事の事実を、多くの日本国民は知らない。
大震災の後、恐ろしい内容のデマ(流言)を飛ばしたのは他ならぬ日本政府当局だった。
朝鮮人が井戸に毒を入れたとか、家に火をつけたなどのデマがばらまかれた。
9月3日、大震災から2日後のことだった。
東京の内務省から埼玉県に電報が届いた。
その内容は「東京で不逞鮮人(ふていせんじん)の不穏(ふおん)な動きがあるので、当局者は非常事態に際して適切な方策を講ぜよ」
このような内容だった。
政府が公文書で指示するのですから、多くの日本人が信じたのは言うまでもありません。
独立を求める人、日本政府に不平不満を抱く朝鮮人を不逞鮮人とした。
すぐに自警団が組織され、朝鮮人の検問、検挙が始まった。
日本人なのかを確かるために「15円50銭」と言わせて、言葉の発音がおかしい者を朝鮮人だとして警察署に収容したのです。
寄居(よりい)警察署長が不逞鮮人ではありませんと言っても、日本人の自警団員たちが警察署内に押し入って留置場にいた青年を竹やりや日本刀で襲い惨殺したのです。
自警団員はすでに300人程まで増えていたとされる。
犠牲となったのは、ク·ハギョン(具学永)と言う朝鮮人青年で、飴売り商人だった。
ク·ハギョンの身体には62カ所もの刺し傷があったと言う。
何の罪もない無抵抗の人をよってたかって刺殺したのです。
虐殺された朝鮮人は数千人にもなるが、名前も年齢も判明して、お墓があるのは唯一、ク·ハギョンだけであり、そんな例は他にはありません。
ク·ハギョンには仲の良かった日本人青年の宮沢菊次郎がいました。
菊次郎はお寺に墓碑を建ててくれるように頼み、お墓が作られました。
今も埼玉の正樹院にク·ハギョンの墓がある。
墓碑には故郷の住所、殺害された年月日、28歳年齢が刻まれています。
命日9月6日
戒名「感天愁雨信士」
正樹院(しょうじゅいん)は1521年に開寺した浄土宗のお寺で、事件当時の住職が「ク·ハギョンのお墓を代々引き継ぐように」と言い残しことから、現在まで守り続けられてきました。
埼玉県さいたま市浦和区木崎3-4-7
朝鮮人虐殺事件の存在を知らせる、貴重な証拠のお墓である。
だが、この国の政府はその事実を認めず、謝罪も何の反省もしていない、そんな事は無かったと言う事にしているのです。
毎年、関東大震災直後に発生した朝鮮人虐殺の追悼式典が9月1日に開かれるが、虐殺の歴史的事実を否定する小池百合子都知事は、追悼式典へ追悼文を送っていない。
現在、先の戦争を侵略戦争と認めず、外国人を蔑視(べっし)、排斥(はいせき)する極右、排外主義の潮流も目立っている。
戦前回避に向かっているようで恐ろしい。
朝鮮人犠牲者追悼文
事件の真実を知ることは不幸な歴史を繰り返さず、民族差別を無くし人権を尊重し、善隣友好と平和の大道を拓く礎になる。
日本弁護士連合会による勧告
国は虐殺の被害者、遺族に対し、その責任を認めて謝罪すべきであるとし、虐殺の全貌(ぜんぼう)と真相を調査し、明らかにすべきだと勧告しています。
歴史に背を向けてきた、反省しない日本政府の責任は重大である。
大正時代に多くの朝鮮人が日本に移り住んだ主な理由は、第一次世界大戦の好景気によって日本の産業が発展したことにより、労働力不足が深刻化したことで低賃金労働力として朝鮮人が雇用されることになった。
朝鮮における経済的困窮や、日本による「植民地支配下(1910〜1945年)の状況下」にあった朝鮮では、貧困や土地を失ったことなどが移住を促す要因ともなったのです。
特に紡績業界等で多くの公募や勧誘が行われたとされ、炭鉱や軍需工場など、労働力が不足している分野へ日本は、朝鮮の人々を「強制的」に労働力として動員することも行なった。
『日本の資本主義』の発展に伴う、「非人道的」な背景である。
朝鮮人虐殺事件以後、排外主義も大きな要因となって、日本が戦争への道を進んだ歴史を繰り返してはならない。
国民一人ひとりが歴史の事実を知り、向き合うことが今、切実に求められているのではないだろうか。

