百里の歴史
茨城県小美玉市小川町百里、現在の百里基地と茨城空港がある一帯はその昔百里ヶ原と呼ばれ、藤蔓や雑林が生い茂る荒れ地でしたが明治の末頃(1907年、明治40年)から農民が入植し、苦労して開墾した農地でした。
旧橘村と旧白河村にまたがる百里原の両村は1954年12月10日に廃村合併し、小川町となった。
地名の由来
殿様の自慢ばなしが地名になったとされています。
昔、殿様たちが集まったときに、お国自慢の花が咲いた。
千葉の殿様が「わしの所には九十九里浜と言う長い長い浜がある」と自慢しました。
それを聞いて、負けず嫌いの水戸の殿様が「わしの所には、百里原と言う広い広い原がある」とやり返したそうだ、、、、。
それからこの原を百里原と呼ぶようになったと、土地の古老たちは語っている。
『百里原物語〜基地をつくるなの運動』松原日出夫著より
他著書=百里基地の危険な実態、百里物語など
名付けた水戸の殿様は、常陸国水戸藩第9代藩主の徳川斉昭(とくがわなりあき、1800〜1860年)とされています。
江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の実父である。
百里原農地
百里原と言われる土地に開拓農民が入植したのは1907年頃のことで、農民たちは雑木が生い茂った荒れ地を根気よく開墾していきました。
この土地は長い期間に渡って多くの人々が開拓団、地元農民、戦後、政府による緊急開拓政策の一環として、引揚者や復員軍人、失業者など多くの人々が入植し、大規模な開拓がなされてきた歴史があります。
日本帝国主義が中国侵略を拡大し、国際連盟から脱退した1933年から4年後、日本帝国主義は中国への全面侵略戦争を開始し、秋には「大本営」が設置された。
「大本営」とは、日清戦争(1894年明治27年)から太平洋戦争までの戦時中に設置された、日本の陸海軍の最高統帥機関の事で、大日本帝国憲法下において、天皇が有する統帥権(組織を率いる最高の権力)の発動に基づくとされる。
1937年、(昭和12年)百里原に海軍航空隊百里基地が設置された。
当初は艦上爆撃機などの訓練基地であった。
翌38年に飛行場を開設した。
百里原は太平洋戦争(日米開戦)によって接収された百里原農地である。
日本帝国主義は終戦を1年後に控えた1944年8月に、周辺農民たちに立ち退きを強制し、農民から土地を奪ってしまう。
B29爆撃機より優秀な飛行機が出来るからと海軍は、滑走路を延長するため土地を農民から奪ったのです。
しかし日本は敗戦国となり、農地として使えない状態の土地になってしまった。
敗戦の翌1946年3月、国の役人が来て、日本はもう戦争はしないから基地は要らなくなったから、ここを耕して食糧増産に励んでくれと言った。
旧海軍基地の跡地には、建物の基礎が残っていたり、じゃりが敷きつめてあったりして農地にするまでは数年かかりました。
当時は機械もなくて、もっこで手作業、掘り出した砂利を売ってなんとか農民は生活できたんだと言います。
電灯もなく、ランプ生活で食うや食わずの生活だったと言う。
ローラーで硬く固められた滑走路の跡を手作業で開墾する日々で、家は冬の朝、布団の上には薄っすらと雪が積もる隙間だらけの家であった。
その後、1948年(昭和23年)頃に国営で、百里原開墾建設事業が着工されています。
それでも大地にしがみついて農民は頑張ってきました。
農民たちが農業の行方に光を見出し始めた1955年(昭和30年)、国は再び百里に航空基地建設を計画し、翌56年に基地の建設が始まり現在に至っています。
前年の54年に、日米相互防衛援助協定(MSA)が調印され、防衛庁設置方法、自衛隊法が成立、そして自衛隊が発足した。
国は本格的な再軍備の道を踏み出したのです。
この年(55年)に自民党(自由民主党)が結成され「55年体制」が始まった年として日本の政治史上重要な年となっている。
また、家電製品(白黒テレビ、冷蔵庫、洗濯機)が爆発的に普及し始め、高度経済成長の象徴となった。
トヨタ・クラウンが発売され、スズキが初の軽自動車「スズライト」を発売した。
後楽園遊園地が完成した。
ワルシャワ条約機構が結成された年であり、またアジア・アフリカ会議(バンドン会議)が開催され時でもある。
アメリカ·カルフォルニア州アナハイムに世界初のテーマパークとして「ディズニーランド」が誕生した。
物理学者のアインシュタインや俳優のジェムスディーンがこの年に亡くなっています。
ちなみに、1983年4月15日にアメリカ国外初のディズニーテーマパークとして開園した「東京ディズニーランド」は、ディズニー社が直接所有、運営していない、世界でも珍しいディズニーパークです。
2001年には「東京ディズニーシー」がオープンし、現在ではホテルやショピング施設を含む東京ディズニーリゾートとして発展しています。
農地を取り上げて基地となった百里基地
ある時は土地を出せ!
ある時は食糧がないから食糧を増産しろと言う。
また再び基地をつくるんだから「退け」と、虫けらのごとく農民は扱われた。
今度こそは絶対に土地を手放さないと言うことで、どのような理屈をつけようとも「基地は存在するなかれ」との思いで、「く」の字に曲がった誘導路がそのことを表し、物語っている。
1956年(昭和31年)に防衛庁が航空自衛隊の基地建設を発表した際に、土地を所有していた住民を中心に激しい反対運動が起きたことから「百里基地反対闘争」は始まりました。
土地買収に応じなかった農民の土地が平和公園となり、基地の誘導路を「く」の字に曲げ、平和公園と言う形で花を咲かすまでには戦前、そして戦後50年の苦闘の歴史が秘められています。
1965年から始まった「一坪地主運動」などを通じて反対闘争は全国にひらがり、現在も続く運動となっています。
航空自衛隊百里基地が建設される当時、滑走路を建設する計画区域内に、基地反対派の住民らの所有する土地が残っていました。
この土地を国は強制収用しようとしたが、所有住民らの反対により断念、その結果、住民所有の土地を避ける形で誘導路が「く」の字になりました。
曲がった誘導路の中心付近には「百里平和公園」が整備され、反対運動の象徴的な場所となっています。
1月には初午祭が公園内で行われ、普段許可なく入る事が出来ないがこの日は公園から見学することができる。
2010年3月に茨城空港と民間共用化される際に、従来の滑走路の西側に新たな滑走路及び誘導路が建設されました。
これによってくの字の誘導路の不便さは解消されている。
この事例は、世界的に見ても珍しい構造であり、日本の土地問題や基地問題を象徴する歴史的な経緯として知られています。
関連ブログ
茨城空港拡張計画と基地強化 No.804

