平和である事が重要
百里平和公園は航空自衛隊百里基地の中にある。
一坪運動の民有地は、およそ1970年代に全国の基地に反対する人々に一坪ずつ所有してもらった、いわゆる一坪地主運動である。
「百里平和稲荷」
広さ約5000平方メートル、基地に反対する地元の人達が防衛庁に売り渡すことを拒み、この土地が残った。
現在は2018年に設立された一般社団法人「百里の会」が管理、見学を希望する場合は百里の会へ
瀬長亀次郎
瀬長亀次郎は、太平洋戦争後のアメリカ合衆国による沖縄統治下において、沖縄人民党を組織し、米国による統治に対する抵抗運動を行った。
返還前の沖縄那覇市長を歴任、元衆議院議員
ジャーナリストとしても知られている。
沖縄の祖国復帰と平和な社会の実現を目指して命がけで闘った人物である。
「瀬長カメジロー」
不屈館
瀬長亀次郎はどんな障害にあっても、不屈の精神でアメリカ政府に抵抗し、「アメリカが最も恐れた男」として語り継がれています。
不屈館は、瀬長の功績を讃えるための資料館ではなく、彼を愛し支えた民衆の歩みが学べるところです。
憲法フェステバル
憲法記念日は、1947年に日本国憲法が施行された事を記念して制定された国民の祝日で、1948年に制定され毎年5月3日に祝われます。
憲法フェステバルは1987年(昭和62年)の憲法施行40周年を機に第1回が開催され、その後毎年憲法に関するイベントとして定着しました。
チケット収入やカンパによって運営されています。
アンネのバラ
ナチスによるユダヤ人迫害によってこの世を去った、アンネの日記で知られるアンネ・フランク
アンネ・フランクの父親が亡きアンネを想い、育種家に作らせたバラ
アンネ・フランクの形見と名付けられたバラ
アンネのバラは平和のシンボル
1929年6月12日にドイツ(フランクフルト)で生まれたアンネ・フランクは、ナチス政権の迫害を逃れるため、オランダに亡命しました。
アムステルダムの隠れ家で2年間を過ごしました。
そこで世に知られている有名な「アンネの日記」を書きました。
アンネが亡くなった後、父親によって出版されました。
1945年に強制収容所でチフスのため15歳の若さで亡くなりました。
糸数アブチラガマ
沖縄戦の実相を現在に伝える糸数アブチラガマ
太平洋戦争では多くの若者の命が奪われました。
糸数アブチラガマは、沖縄本島南部の南城市にある自然洞窟(ガマ)で、もともとは糸数集落の避難指定豪であった。
戦時中沖縄の人々が戦火の中、生活していた洞窟です。
しかし戦場が北部から南下するにつれて、日本軍の陣地豪や倉庫として使用されるようになり、その後陸軍病院の分室となっていった。
軍医、看護婦、ひめゆり学徒隊が配属され、全長270㍍のガマ内は600人以上の負傷兵で埋め尽くされました。

ひめゆりの塔
ひめゆりの塔は、沖縄戦末期に沖縄陸軍病院第二外科が置かれた豪の跡に立つ慰霊碑です。
現在の沖縄県糸満市にある。
1945年3月から3ヶ月余り、日米両軍は沖縄で住民を巻き込んだ地上戦を繰り広げました。
日本軍は米軍の本土上陸を1日でも遅らせるために、豪に潜んで長期戦に持ち込む持久作戦を採りました。
この作戦が沖縄戦を長引かせることになり、日米の戦死者は20万人以上にのぼりました。
その内の6割に当たる12万人は沖縄県民であった。
日本軍は兵力不足を補うため、沖縄県民を根こそぎ動員したのである。
中等学校や師範学校などの10代の生徒まで戦場に動員したのです。
生徒、教師240名が看護要員として動員され、その内136名が死亡。
動員された2校の愛称が「ひめゆり」であったことから、戦後彼女たちは「ひめゆり学徒隊」と呼ばれるようになりました。
その2校は、那覇市安里にあった「沖縄師範学校女子部」「沖縄県立第一高等女学校」である。