緑のお医者の徒然植物記

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緑のお医者の徒然植物記

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土曜日, 7月 30, 2022

戦争とさつまいも No.580

 食糧難の戦時下

戦争で亡くなった者の多くは餓死や感染などである。


昭和20年、終戦を迎えても日本に帰ってこれない日本兵が多方面に多くいました。

終戦直前は全く食うものがなくなり、椰子(ヤシ)を倒しその梢の実を食べていました。

飲み水代わりは椰子の実の水でした。

赤道直下は一年を通してほとんどスコールがない。

ジャングルでの生活は、テレビで観るような太古の原始人の生活そのものであったと言う。


栄養不足によってマラリアになり、多くの兵士が亡くなった。

戦地の現状は、戦争をしている場合ではなかったのです。

インドネシア北マルク州、ハルマヘラ島のジャングルの中では、さつまいもを育てたと言う。




苗を植えてから1ヶ月程でごろごろと大きな芋ができたと言う。

しかし、この世にこんなにまずい芋があるのかと言う程の芋だっと言う。

同じ戦場でも海軍防備衛所隊の生活は、設営隊の作った床板張りの兵舎に住み、白米にさつまいもやタピオカを混ぜた飯を食べての生活で、これを見るとつくづく陸軍部隊の哀れさを感じたという話がある。

✪海軍防備衛所(隊)とは
大日本帝国海軍が、重要港湾、海峡などへの敵潜水艦侵入を阻止するために設置した陸上拠点のことである。

1943年(昭和18年)1月以降、原則3個の防備衛所を有する12隊の衛所隊が編成され、西はビルマから東はラバウル方面まで、各地に派遣されその後、1944年9月までにすべての隊が解隊された。

戦中、戦後と、どれだけの人々がさつまいもに救われた事だろう。

今でも栄養失調はマラリア等による死亡を増加させるが、マラリアが残るアフリカの一部の地域では、子どもの栄養不良の約3分の1がマラリアによって引き起こされています。


特に重症の貧血に陥ることが多く、その後の発育に大きな影響を及ぼしている。

昭和40年代でもさつまいもが主食だった我が家では、白米を満足に食べたという記憶がない。


学校給食ではなかったため、弁当箱にはさつまいもとサバが定番であった。

ウイナーなど色鮮やかな食材が普及し始めていた頃であった。


さつまいもを蒸した弁当を教室で食べる事が出来なかった。


その事に気がついた先生が、職員室で食べるようにと
声をかけてきた。

とても優しい先生、自分の弁当と交換してくれた。


止めどなく泣いた記憶が残っている。


小学校を卒業するまでは紛れもなくさつまいもが主食の家庭であった。

今から50年前の話である。








金曜日, 7月 29, 2022

イチョウ葉の薬効 No,579 

 イチョウは二億年前のジュラ紀、恐竜時代の太古から現存する歴史的樹種である。

秋の美しい黄葉で親しまれている落葉樹です。

イチョウ葉の薬効

日本では、イチョウの葉っぱに薬効があることを余り知られていない。

ほとんどの日本人が「まさか」と思うに違いない。

ドイツでイチョウの葉から抽出したフラボノイド、ギンコライドの薬効が証明され、薬品としての認可を受けました。





それ以来、イチョウ葉は薬剤の原料としてヨーロッパでは有名である。


原料のイチョウ葉が、日本からヨーロッパへ大量に輸出されていることを知る日本人は少ない。


ドイツ、フランス、スイスなどヨーロッパ各国で、日本産のイチョウ葉を原料として、血管性疾患治療薬が病院で処方され、また市販されている。

フランスでは、イチョウ製剤の名称を「タナカン」と言いますが、それは開発当時の1973年頃の元総理の田中角栄の名前に由来すると言う、嘘のようなほんとの話と言われています。


オーストリア、中国で医薬品、アメリカ、イギリス、カナダでは健康食品として人気です。

欧州で医薬品として認められているが、日本では薬事法でも医薬品の認定はなく、健康食品として利用され、誰一人イチョウの葉が貴重な薬剤原料とは気づこうとしないのです。


フランスで「タナカン」は、全医薬品の売り上げの第一位を占めるなど、いかに人気と効能があるかが伺い知れる。


欧米の有名な医薬品の百科事典「メルク·インデックス」にもイチョウ葉エキスは、脳及び末梢血管の血液循環障害に効能のある医薬品として記載されている。


♣メルク·インデックスとは
1889年に初版発行された百科事典で、化学物質、薬品、生物製剤に関する化学研究者必携の事典である。


イチョウの葉の主成分は、フラボノイド、ギンコライドと言う二つの成分で、フラボノイドは他の植物にも含まれ、主に防腐作用、発芽などを助ける働きもあります。

イチョウ葉には特殊なタイプのフラボノイドが多量に含まれているので、それだけ効能も素晴らしいと言える。

ギンコライドは、イチョウだけに含まれる成分で、イチョウの学名「ギンコ」から命名されたと言われています。

ギンコライドが持つ強力な抗酸化作用は、主に脳細胞に作用すると言われており、活性酸素によって生じ得る脳の障害を予防する事ができると言われています。


その他、血流を改善する効果もあるため、認知症の原因のひとつである脳梗塞を予防する事にも繋がります。


フランスの「チャールズニコール病院」では、中程度の痴ほう症が正常に回復、イチョウ葉エキスを投与した患者から好結果を得ている。


◉イチョウ茶

イチョウ茶は製剤ほどの効き方は望めないが、お茶として飲んでも穏やかな効能は得られる。

ヨーロッパでは古くから血圧安定、更には美容のための健康茶として愛飲されています。

イチョウの葉は、8月から9月の緑の濃い季節に採取し、天日干しで十分に乾燥させた後、細かく裁断して容器で保存します。


一日分は大さじ一杯のイチョウ葉をコップ一杯半程度の水を入れ、土瓶で5分から6分煮出します。


少し苦味を感じるかも知れません。

レモンを浮かべてレモンティー風にしたり、アイスティーにしてもハチミツを入れても美味しいでしょう。


動悸や高血圧などが気になる人は飲んでみてはいかがでしょう。

また、更年期障害にも効果を上げています。


◉イチョウ関連ブログ

太古から現存するイチョウの木 No521

イチョウ「銀杏、公孫樹」 No,178

銀杏(ギンナン)の実生で盆栽をつくりたい。
No,66






水曜日, 7月 20, 2022

大飢饉を救ったのはさつまいも No.578

 江戸時代に起きた大飢饉

さつまいもは江戸時代の大飢饉で多くの人の命を救った作物であり、また戦時中でも食糧難に陥った日本を助けてくれた救荒作物です。


江戸時代の大飢饉

天保の飢饉
天保の飢饉は、天保4年(1833)から同7、8年にかけて全国を襲った飢饉で、天候不順による深刻な冷害で凶作となった東北各地で多数の餓死者を出した他、天保8年には大阪で困窮民に対して救済措置を取らないことに激怒した大塩平八郎が、豪商を襲撃して(大塩平八郎の乱)火を放つなど各地で、一揆や「打ちこわし」を誘発した。

この飢饉での死者は、餓死、疫病死を含めると全国で、20~30万人達したと推定されている。


★大塩平八郎の乱とは
儒学者、大阪町奉行組与力であった大塩平八郎が起こした反乱である。

1837年に大塩平八郎が起こした反乱で、飢えにあえぐ民衆たちを救うため、私利私欲を肥やしていた大坂の豪商を襲って金銭や米を奪ったのである。

反乱は1日で鎮圧され、反乱に関わった人たちは厳しく処罰された。

この反乱で7万人程度が焼け出され、焼死者は270人以上、その後の餓死者や病死者を含めるとそれ以上だと言われている。


◉打ちこわしとは
民衆が米屋を始め、質屋、酒屋などの富豪を襲撃し、家屋の破壊や家財の略奪などを行う暴動の事で、民衆の怒りが集中したことで起きた騒動である。


天明の飢饉
天明年間(1781~1789)の大凶作によって全国各地に深刻な飢饉をもたらした。

特に東北地方の状況は悲惨なもので、天候不順に領主側の判断ミスも重なって多くの餓死者が出ました。

津軽藩(現青森県)だけで死者は10万人に達したとされる。

天明3年に起きた浅間山大噴火も、大気中に大量の微粒子を噴き上げた事によって冷害の原因の一つとなり、飢饉を悪化させることになったと言われています。

食糧を求めて領外へ逃亡する民や、力尽きて餓死する人々が増えていった。

そして飢饉の余り、牛馬、犬猫はもとより人間の死肉を喰う人の姿もあったと言う。


享保(きょうほう)の大飢饉
享保17年(1732)では気候不順による作物の成育不良に、大規模なウンカ(稲の害虫)などの害虫被害が加わり、畿内以西は大凶作となった。

深刻な飢饉が発生し、餓死者は一万二千人余り、死亡した牛馬も一万四千頭を超え、二百万にも及ぶ人が飢えに苦しんだと言われています。

特に筑前福岡藩領だけで、6~7万人が餓死したと言う推計もあるがしかし、実際の餓死者の数はこれをはるかに超えていたと思われる。

翌18年は豊作であったため、飢饉は比較的短期間で終息したが、この飢饉は江戸の町に飛び火しました。

そのため、大量の救援米が西国に回された結果、江戸の米価が急騰することになった。

そして日本橋の米問屋(高間伝兵衛の店)が襲撃されてしまう事になったのである。

「高間騒動」は江戸時代の都市における最初の「打ちこわし」事件となったのです。


寛永の大飢饉
江戸時代初期の1640年から1643年にかけて起こった飢饉。

大飢饉を起こす背景には、1630年代から1640年代における東アジア規模の異常気象などによる凶作から飢饉が発生しているが、そのなかでも寛永に起きた飢饉は最大であったとされる。

「島原の乱」とともに江戸幕府の農政転換にも影響したのである。

★島原の乱とは
(島原、天草の乱、一揆とも呼ばれる)
江戸時代初期に起こった江戸幕府のキリシタン弾圧に対する反乱。

日本の歴史上最大規模の一揆であり、幕末以前では最後の本格的な内戦であった。


さつまいもは江戸時代の大飢饉で、多くの人の命を救った作物。


さつまいもを江戸(東京)に初めて持ち込んだ人物は「青木昆陽=あおきこんよう」とされ、芋神様と地元では呼ばれ、昆陽神社と言う青木昆陽を祀った神社がある。



△昆陽神社
住所=千葉市花見川区幕張町4=803


青木昆陽の墓所がある瀧泉寺目黒不動尊では、毎年命日の10月12日「昆陽会=こんようえ」と毎月28日の不動縁日に合わせて「甘藷祭り」が開かれる。


1732年に起きた大飢饉の際に、日本各地で多くの餓死者が出ました。

さつまいもを取り寄せて栽培していた伊予潘(愛媛県)では難を逃れました。


その事を調べていた青木昆陽は、徳川吉宗に懇願し、さつまいもの栽培を促したとされる。

大飢饉を乗り越えることが大切な職務であることを認識した徳川吉宗は、関東でのさつまいも栽培を命じました。

学者であった青木昆陽は栽培に精力的に取り組む中で大変苦労したそうです。

西日本中心で作られたさつまいもの品種は、環境が異なる関東で栽培することは難しい事であったが、数年の歳月をかけてさつまいもの栽培に成功した結果、栽培法が関東や離島に伝えられ、1792~1976年に再び起こった大飢饉では多くの人命を救う事となる。


◉八丈島甘藷由来碑
八丈島の文化財

慶応4年(1868)菊地馬之助は祖父、父の功績を讃えて建立した碑である。


★八丈島甘藷由来碑
東京都八丈町大賀郷


古来から芋を朝食にしていた八丈島では、芋と言うのは里芋のことで、さつまいもは後から伝わったものです。

1723年(享保8年)に伝わっていたが普及することはなかったとされる。


後の1811年(文化8年)になって菊地秀右衛門が赤さつま種を、翌年に子である小源太がハンス種を新島から持ち帰り、全島に普及したものとされる。

八丈島ではさつまいもの伝来により、飢饉の回数と被害が減ったばかりか人口も増えると言う食糧革命が起きた。


八丈島ではさつまいものことを「かんも」と言いますが、これは唐芋からかんもと呼んだものです。


♣五島いものルーツ
五島列島(長崎県)

我が故郷五島列島の名物に、さつまいもを原料としたかんころ餅や芋焼酎などがある。


五島福江島にはさつまいもが伝来した歴史を示す碑がある。






現在の五島芋の苗の元になったものが持ち込まれたのは江戸末期(慶応1865~1868年)で、それ以前にも栽培は行われていたが、育てるには十分な環境ではありませんでした。

この碑は新たにさつまいもを持ち込み、今日にまで至るきっかけとなった証の碑です。

当時★富江で商いをしていた田原伝吉が鹿児島からさつまいもの苗を仕入れ、さつまいもの苗につてい研究していた田中庄三郎にそれを与え、一般に普及出来るように努めた事が現在の五島芋苗のルーツになっている。

この両名がいなかったら五島でのさつまいも関連の名産品は、産まれていなかったかも知れません。


★五島列島最南端に位置する福江島、富江地区はそのまた南部に位置する古くから「珊瑚の町」として知られる。

大正から昭和初期には珊瑚の採取とカツオ漁が盛んであった。


二人の貢献を記念して建立しのが顕彰碑と言う事です。





◉さつまいも関連ブログ
救荒作物サツマイモ No.572