真の被爆の実相
多くの人々が素通りしてしまうのがほとんどである。
原爆投下時この地域でただ一人助かった人がいました。
その一人は、この防空壕の奥深くに入っていて難を逃れたのです。
アメリカはこの教訓から学び、「核シェルター」を開発したと言われています。
祈念公園噴水前には、長崎刑務所浦上支所跡がある。
現地の案内文には「爆心地より北へ約100㍍」とあり、中国人32人、朝鮮人13人が入所と書かれていますが、こうした外国人の多くは無実だったと言われています。
地図②刑務所跡
案内文にその事実は書かれていません。
軍艦島でも朝鮮人等の外国人が、強制労働のため連れてこられた。
当時の長崎は差別の町だったのです。
平和祈念像から少し離れた所に、長崎市原子爆弾無縁死没者追悼記念堂があります。
そこには、名前の分からない一万人近くの方が追悼されています。
裏手には殉難者納骨堂があり、平和公園駅に隣接する陸上競技場周辺には、当時たくさんの方々が住んでいて原子爆弾の犠牲になった。
地図③無縁仏の墓
被爆後にこの地にやってきたアメリカ軍は、そこに飛行場を作ると言い出します。
それはとんでもないことだと言う事で、心ある人たちが遺骨を収集し、この地に納骨しました。
そんな話は語られることもなくなり、ほとんどの人々がこの納骨堂を訪れることもなくなってきています。
被爆後に浦上天主堂にやってきたアメリカが最初にやった事は、瓦礫の後片付けでした。
被爆の実態を隠そうと行ったのです。
これはアメリカ軍による非人道的な行動である。
地図⑤浦上天主堂残骸
爆心地に近い山王神社の大楠の木は、被爆によって主幹が折れ、生き返ることはないだろうと言われていました。
しかし、2カ月で新芽を出したのです。
「樹齢500〜600年」
「山王神社の大楠の木」
地図⑥山王神社の大楠の木
被爆クスノキは爆心地から約800㍍の地点にあり、熱線と爆風で枝葉は吹き飛ばされました。
幹が黒焦げになったが生き延び、復興のシンボルとなった。
長崎の平和への思いを象徴する存在となった。
このクスノキは、被爆の悲惨さと平和の尊さを静かに、しかし力強く伝え続けている「物言わぬ語り部」として現在も存在しています。
山里小学校は、1874年の中馬込小学校、山王小学校と1876年開校の中野小学校を前身とする長崎市北部でも有数の歴史ある小学校です。
原子爆弾投下時小学校は、爆心地から北へ約700㍍にあった。
被爆当時は1500人を超える児童数で、児童は当時隣組単位での自学自習であったため、自宅などで約1300人が亡くなったとされています。
隣組(となりぐみ)とは、地域をいくつかの小集団に区切って構成された組織のことで、国民統制を目的として作られました。
現在では、自治会や町内会の下部組織として存在している。
戦後80年のナガサキは変貌している。
行政も真実を覆い隠す。
真の被爆の実相を語り、伝えて行く役割は大きい。













