緑のお医者の徒然植物記

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2021/03/10

山本懸蔵の命日 No,400-1

 山本懸蔵命日


今日は山本懸蔵氏の命日である。

我が家から12キロの場所に山本縣蔵の碑がある。

今日は、お花を少しだけお供えしました。

目立つ所を草取りしました。



昨年せん定したサルスベリも、無事に咲いたようで、今年も小生がせん定作業しなければいけないのかな?

🤧




カイズカイブキもいい加減、せん定しないといけないんだけどね。

せん定作業は大変な状況になっています。

伸び過ぎです!

電線に触れていた部分は昨年、とりあえずせん定したけどね。



✣日本共産党への不当弾圧の歴史ある日本


天皇制政府によって行われた、全国一斉の大弾圧、党員、党支持者の一斉検挙が行われた事は事実として、歴史に刻まれている事である。


日本共産党を反社会的とするための陰謀によって、一般国民にうえつける狙いであった。


それが戦後、今の世の中を見てもこの陰謀が成功しているのだと思わざるを得ない。


検挙を免れるために山本は日本を脱出してソ連に渡った。


その後、同国で名前を変えて活動を続ける中で、ソ連の弾圧機関によって、日本の政府、警察のスパイとしてでっち上げられ国家反逆罪で逮捕された。


スパイであると密告したのは、他でもない同士であったはずの野坂参三である。


その後山本は1939年(昭和14年)3月10日に銃殺処刑された。


44歳であった。


野坂はその後帰国、真実を隠すために死亡原因や死亡日など、全てを偽って報告をしていた。


ソ連に渡っていた山本夫人の帰国を妨害していた。


山本夫人の帰国で真実が暴露されるのを野坂は恐れたからである。


帰国していた野坂は国会議員として活動し、50数年間も所属政党を自ら裏切り続けた卑劣な人物である。


帰国後もソ連と内通していたのだ。


戦争は身近な同士であってもお互いが騙し合う、そんな事が自分の生命を守るために起きてしまう、それが戦争と言うもので繰り返してはならない惨禍である。



野蛮な時代の日本政府でなければ、山本懸蔵がソ連に逃げ、不名誉な罪を被せられ亡くなる事もなかった。


その事は間違いない!


せめてあの世で名誉が回復された事を知れたなら、少しの慰めにもなるだろう。



現地、山本懸蔵の碑にて


2021年3月10日


✣山本懸蔵 関連記事

#山本懸蔵 No,224










日本の果物は世界一 No,400

 世界一の美味しさを作り出した日本の果樹

何気なく食べている果物ですが、様々な物語がある。

様々な品種の掛け合わせによって、優れた特性を持つ品種が作り出されてきました。

日本の果物は、世界に類を見ないほど美味しいと言えるでしょう。

これは日本人の味覚の繊細さを証明しているかのようでもあります。

✻こんな事を言ったら世界中から批判を浴びるかもしれませんね。

lf you say this, you may be criticized from allover the world.

世界中で日本の果樹が、栽培生産されている事も少なくありません。

✿ふじ「リンゴ」

「ふじ」リンゴが生まれたのは1939年昭和14年、当時の農林省園芸試験場でした。

「国光」に「デリシャス」を交配して育成され、1962年(昭和37年)に「ふじ」と命名されました。


✻「デリシャス」と言う名が付いた逸話

米国アイオワ州の果樹園を経営していたジュツセ·ハイアット氏が、明治3年に果樹園を見回っていたところ、樹列からはみ出している1本のリンゴの木を見つけ、それを切り捨てました。

しかし、切られた樹株からひこばえが伸びてきたのを見つけて、それをまた切り捨てました。

それでも尚、ひこばえが伸びてくる樹の生命力に感動した彼は、この樹を育てて果実を実らせて見る事にしました。

それから大事に育てた樹は10年後に果実をつけました。

その果実を頬張った彼はこれは「世界最高だ」と感激しという事で、その後リンゴは種苗会社スターク兄弟商会の手に委ねられ、1895年(明治28年)に世に出る事になります。

リンゴを食べた当時の社長が「おおーこれは美味いデリシャス」と叫んだことで名前が決まったという事です。

✿国光(こっこう)

国光は西洋リンゴの品種名
アメリカ、バージニア州原産で1868年か1871年のいずれかに、日本へ導入されたとする2説がある。

日本では約100年間に渡ってリンゴ生産の品種として、広く栽培されたが、価格暴落と品種の更新などが要因となり、主力品種から消えた。


なぜ「ふじ」品種の人気が出たのか。

それは甘さと爽やかな酸味と、パリッとした歯ざわりだったのかも知れません。

その甘さは年間の気温が高い事に依存しています。

気温が高い地方で育った「ふじ」には、糖度が高くなる傾向があります。

そのため、東北地方の南部や長野県の平坦地で生産された果実は、糖度が高くなります。

一方、青森県など寒冷地方で生産されたものは、やや糖度が低くなります。

しかし、果実のしまりがよく貯蔵するには良い。

逆に西日本の暖地で作ると、実のしまりが悪く、すぐに軟化してしまいます。

その事から果実には適した地域があるのです。


                                            「ふじ」


✿幸水(梨)

「幸水」は1941年(昭和16年)当時の農林省園芸試験場で「菊水」と「早生幸蔵」の交配実生から育成されました。

1947年(昭和22年)に初結実し、1959年(昭和34年)に「幸水」と命名されました。


                                            「幸水」

この品種の親は、「青梨の菊水」と「赤梨の早生幸蔵」の品種です。

この区別を青梨が「二十世紀」赤梨が「長十郎」と表現される。

青梨の特性は、日持ちがすることですが、赤梨は日持ちがしません。

「幸水」は青梨と赤梨の良い所を取って生まれてきた、中間種とも言える品種です。

因みに赤梨と言う理由は、外観が赤褐色であるためですが、これは果実表面にコルク層が発達するため褐色になるからです。

「幸水」はより大きなものが甘く、糖度と大きさが比例するので、作ると時は摘果をしっかり行って、着果数を制限し、大玉を収穫するようにしましょう。

より大きなものが甘いと言う事なので「幸水」を買う時のポイントにもなります。

✿長十郎

明治26年に神奈川県で発見された「長十郎」は昭和初期までが全盛期

今では殆ど見かける事も少ない。


                                    「長十郎」


✿二十世紀梨

1888年(明治21年)に千葉県葛飾郡大橋村、現在の二十世紀が丘梨元町で、当時高等小学校2年(13歳)の松戸覚之助少年によって発見されました。


                              「二十世紀」

分家の石井佐平家を訪れた際、ごみ捨て場に芽が出ている梨の苗木があるのを発見した。

覚之助(かくのすけ)少年は、分家の石井佐平より苗木を譲り受け、自宅に植えました。

試行錯誤の末育った梨の木は1898年に遂に結実した。
覚之助23歳の出来事である。

その後、覚之助は梨の栽培生産を続けて行くのである。

後に、覚之助が育てた原木は1935年(昭和10年)国の天然記念物に指定されるが、太平洋戦争での松戸を襲った空襲により傷つき、1947年(昭和22年)に枯死してしまう。

(1875〜1934年、昭和9年)覚之助は二十世紀梨の普及に生涯を捧げたのである。

戦後、覚之助の農園周辺は覚之助の業績を記念して「二十世紀が丘」と言う地名となった。

後に、この地が細分化され、二十世紀が丘梨元町になった。

枯死した原木の一部が松戸市立博物館に市指定文化財として保管されている。


            「二十世紀梨、発祥地の碑」






2021/03/09

農薬取締法 No,399

 農薬取締法について

植物保護剤「農薬」は病害虫、雑草などに効果的で安全性に優れた安価な農薬を確保して、農業生産性の向上に役立たせる事を目的に1948年に制定され、その後、幾度か改定されました。

農薬についての制度を設け、販売及び使用の規制などを行うことにり、農薬品質の適正化とその安全かつ適正な使用の確保を図り、農業生産の安定と国民の健康の保護に役立つと共に、国民生活環境の保全に寄与するために、農薬登録制度、販売規制、使用の規制、安全使用に関する規制などの規定が置かれています。

平成14年、15年にこの法律が改定され、家庭での農薬使用にも適用されるようになりました。

そのため、植物の種類と病害虫の種類ごとに使用できる農薬が決められました。

例えば、バラの「黒点病」に「オーソサイド」が登録されているなど、更に使用回数、使用量、使用濃度も細かく制限されています。

この使用方法は容器のラベルに詳しく書かれています。

この法律に違反すると、罰金などの処罰を受ける可能性があります。

バラの病害虫には多くの薬剤の登録がありますが、平成20年8月時点では、石灰硫黄合剤は登録がありません。


                              「石灰硫黄合剤」

この石灰硫黄合剤はバラに限らず、家庭園芸では病害虫防除のために、冬季限定の薬剤散布の定番として広く使われてきた薬剤で、リンゴやナシなど多くの果樹などで現在も登録があり使用されています。

この薬剤がバラに登録がないのはとても不便です。

石灰硫黄合剤に代わる薬剤はありませんので、使用に関しては個々に判断していただく事になります。

農薬の新規登録や取りやめになったもの、適用変更や使える植物、病害虫の種類が変わる事がありますので、確認するようにしましょう。

例えば、バラの黒点病に使える農薬を知りたい場合は、作物名称欄に「ばら」を選び、病害虫、雑草名称欄に「黒点病」を選んで検索すると使える農薬が探せます。

黒点病と黒星病は同じものですが、黒星病で登録されている農薬もあるので、両方の病名で別々に検索するようにします。

確認先は農林水産消費安全技術センターホームページ

http://www.acis.famic.go.jp/searchf/vtllm001.html







2021/03/08

バラ ハイブリッドティー(HT)の誕生 No,398

 ハイブリッドティーの誕生

1867年、フランス、リヨンのバラ育種家✭ジャン=バプティスト·ギョーはハイブリッドパーペチュアル系統の品種「マダム·ヴィクトール·ヴェルディエ」とティー系統の「マダム·ブラヴィー」を交配し、完全な四季咲きの品種を育生しました。

この品種に「ラ·フランス」の名前が付けられ、このバラが最初のハイブリッドティー系統品種となります。

✭ジャン=バプティスト·ギョー·フィス(1827~1893年)
フランス、バラ育種生産会社
ギョー社2代目

                                                              
     
           HT·「ラ·フランス」


このバラは素晴らしい香りを放つ品種で、耐寒性と強勢性を併せ持つ品種。

実際には「ラ·フランス」に続くいくつかの品種が育成され、1884年になって初めてこれらの品種が、従来の✫ハイブリッドパーペチュアルと異なる新たな品種群である事が、認識されることになります。

✫ハイブリッドパーペチュアル
この系統のバラはハイブリッドティーが出現する19世紀末頃までは、ヨーロッパのガーデンローズの中心的存在でした。


           ❆ハイブリッドパーペチュアル
             「バロネス·ロスチャイルド」

1900年代になると、ハイブリッドティーは、その品種群に「ペルネティアナローズ」が交配され、浸透し変化していきます。


ペルネティアナローズ
                   「ソレイユ·ドール」

✿鮮黄色ハイブリッドティーの誕生

このペルネティアローズですが、現代バラの発達の歴史に大きな影響を及ぼしてきました。

それは、このバラが現代バラに合流することにより、花色の1分野に黄色の一大革命をもたらしたからです。

それまでの品種では、黄色といえばノアゼット系統やティー系統に見られる淡い黄色、またはクリーム色しかありませんでした。

それは黄色の起源が「パークス·イエロー·ティー·センテッド·チャイナ」のみだったからです。


「パークス·イエロー·ティー·センテッド·チャイナ」


パルネティアナローズに現代バラに見られる、鮮黄色をもたらしたのが
原種バラの「ロサ·フェチダ」です。


                 原種バラ「ロサ·フェチダ」

❆ロサ·フェチダ
雌雄の種子が出来にくい、もとは別々の種が交雑してできた雑種がもとになった種とも言われています。

「フェチダ」とは「悪臭のある」という意味で、独特の香りですが香料化学的にネーブルオレンジの香りに属します。

一方、葉はリンゴのような香りがする。

この野生種はもともとイランからアフガニスタンに分布するバラで、東ヨーロッパでは栽培されていたものが、一部野生化していたようである。

このバラをオランダの薬学者、植物学者である✫クルシウスが、1500年代の終わり頃にオーストリアから導入しました。

✫カロルス·クルシウス
(1526~1609年)
フランス生まれのフランドルの医師
薬学者、植物学者
16世紀の園芸に対し、最も影響力のあった植物学者とされる。

その頃、このバラはオーストリアには広く分布していたので、「オーストリアン·ブライアー」と呼ばれました。

この種には、花弁の表面が朱赤で裏面が黄色の枝変わりの変種、「ロサ·フェチダ·ビカラー」は「オーストリアアン·カッパー」と呼ばれています。


                「ロサ·フェチダ·ビカラー」

そのため、もとの(原種)ロサ·フェチダをこの変種と区別するため「オーストリアン·イエロー」と呼ぶこともあります。

また、ロサ·フェチダにはもう1変種、他のものより大輪の八重咲きがある。
1800年代前半にイランで発見されたそのバラは、「ペルシアン·イエロー」と呼ばれている。


                             ロサ·フェチダ
                   「ペルシアン·イエロー」

この「ペルシアン·イエロー」をフランス、リヨンのバラ育種家のペルネ=ドゥシェがバラの品種改良に用いることになります。

しかし、「ペルシアン·イエロー」はなかなか実をつけず、ペルネ=ドゥシュは交配を開始し、成功するまでに6年もかかっています。

この間、根気よくHT·パーペチュアルの多くの品種にペルシアン·イエローの花粉をかけ続け、何千もの交配を行い、その結果1888年にやっとの事で、HT·パーペチュアルの1品種「アントワーヌ·ドゥシュ」との交配に成功し、2本の実生が育てられました。

そして、その内の1本がハイブリッドティー系統の1品種と交配が行われ、後代に最初の黄花品種ができる事になります。

この品種には「ソレイユ·ドール」
(黄金の太陽)というが名が付けられ、1900年に正式に発表されました。
1898年に展示会に出展されていた。


                          「ソレイユ·ドール」

その後、この品種の後代はペルネ=ドゥシュの名前に因んで「ペルネティアローズ」と呼ばれ、ハイブリッドティー系統に統合されることになります。

「ソレイユ·ドール」は一季咲きでしたが、パルネ=ドゥシュは他のハイブリッドティー系統品種と交配し、四季咲き品種を育成しました。

1920年には黄花品種の重要な親である「スブニール·ド·クロジュ·ペルネ」が発表される事になります。


     「スブニール·ド·クロジュ·ペルネ」


交配種として、よく利用された「ゴールデン·ラプチャー」(1933年)は巨大輪系品種のもとになり、現在も世界中で栽培されるハイブリッド「ピース」(1945年)などの歴史的な黄花品種も「スブニール·ド·クロジュ·パルネ」を介して、「ソレイユ·ドール」に遡る事ができます。


           HT·「ゴールデン·ラプチャー」


                                   HT.「ピース」

現代バラの黄花品種の殆どが「ソレイユ·ドール」をもとにしてできてきたことから、いかにペルネ=ドゥシュの功績が偉大であるかが分かります。

現代バラはこの黄色の導入によって花色の範囲を広げる事になったのです。











2021/03/07

太枝切りの基本位置 No,397

 太枝切りの基本


太い枝を知り落とす場合、ノコギリで切り込みを入れる位置が適切であれば切り口が樹皮で巻き込まれ、「カルス形成」傷がふさがれ回復します。

✻カルス形成とは

カルス形成は傷などのストレスによって誘発される。

植物の組織培養で形成される、不定形の細胞の塊のことを広く示す。
癒傷(ゆしょう)組織ともいう。

枝の付け根に「ブランチカラー」と呼ばれる膨らみがあるため「ブランチカラー」と枝の境目で切るようにします。


✭枝の付け根の膨らみがブランチカラーと呼ばれる部分。

ブランチカラーの境目より長くても短くても、枯れたり腐ったりします。

ただし、寒期に切る場合は長めに切っておき、春先になってから切り直します。

細い枝も同じ要領で切ります。

太枝の切り口には念の為癒合剤を塗って保護しておくと安心できます。


                   (太枝の切断位置図)

①短すぎる。
②最適な切断位置。
③長すぎる。


         (枝切り口、カルス形成中)










2021/03/06

植物を愛し続けた牧野富太郎博士 No,396

 植物分類学者牧野富太郎博士

自身を「草木の精」と呼ぶほど植物を愛し続けた植物分類学者

新種や新品種など、1500種類以上の植物を命名し、日本の植物分類学の基礎を築いた牧野富太郎博士。

牧野博士は幕末の1862年、高知県の中央部より西に車で1時間ほど、現在の佐川町である、作り酒屋の裕福な家庭に生まれました。

しかしながら、幼くして両親と祖父を亡くし、祖母の手で育てられました。

そんな少年期での遊び相手となったのが植物でした。

私塾で英語、地理、物理などの最先端の学問を修得し、後にできた小学校では物足りなさを感じ、自主退学その後、本草書などから独学で植物学の知識を深めていきました。

牧野博士の人生の転機となった出来事は、1881年に東京で開催された「第2回内国勧業博覧会」でした。

この博覧会は、明治政府の「殖産興業政策」の一環として開催された。

博覧会を見学するため上京した際に、日本の植物学の現状を知り、本格的に植物分類学の道を歩き始める決意をしたのである。

牧野博士の夢は、故郷である土佐の植物目録を作る事。

しかし、当時は日本の植物についても、良く分かっていなかった時代でもあった。

現代のように植物誌が分かるような 図鑑もなく、また日本の植物の学名の多くが定かでなかったのです。

1884年、牧野博士は東京大学理学部植物学教室への出入りを許され、植物分類学の研究に打ち込む機会を得ました。

それからは、土佐をはじめ日本の植物を集めて、その学名を知るべく、海外の研究者のもとへ盛んに標本を送りました。

こうした動きの中で、ようやく日本でも植物分類学、特に記載学の土壌が整っていったのです。

1889年牧野博士は、✭大久保三郎と共に国内で初めて新種「ヤマトグサ」の学名を付けました。

✭大久保三郎(植物学者)
1857年〜1914年(56歳没)

❆ヤマトグサ
アカネ科の多年草、ややハコベに似ている。
学名(Theligonum japonica.okubo et Makino)
学名には命名者、大久保、牧野が記されている。


       A,「ヤマトグサ」


A,国内で初めて学名が発表された植物ヤマトグサ。

牧野、大久保、両博士が1889年に共著で発表。


牧野博士は以降、たくさんの植物を発見し、命名して行きました。

こうした事の功績から牧野博士は、「日本の植物分類学の父」と呼ばれています。

幼い頃から模写力は国内外でも評価が高く、牧野博士直筆の植物図(42ページ)は海外の著作にも掲載されました。

国内にも植物図の影響を受けた画工がいる。


              牧野博士直筆「ホテイラン」の植物図。


牧野博士は、研究ばかりではなく、各地の植物同好会の設立、採集会や公演の講師を務めるなど、地域の要望に応じて北海道から九州まで全国を巡り、植物を知る事の大切さを伝え広めた。

その気さくさで陽気な人柄は、多くの人々に親しまれたと言います。


「オニバス」の幼株を首に掛けて牧野博士77歳


また、昭和天皇より植物種名を調べるご依頼を受け、御進講をしています。

御進講(ごしんこう)とは様々な分野の専門家や学者等が、天皇、皇后、皇族等の貴人に対して講義をする事を指す。

牧野博士が設立に関わった同好会の中には、東京や横浜の植物同好会のように今も、活動を続けている所もあります。

横浜の植物同好会(植物会)
1909年10月に設立された日本最初の植物同好会。
2009年に創立100周年を迎えた。

公益財団法人高知県牧野記念財団では、博士の夢だった「高知県植物誌」を県民ボランティアと共に作り上げました。

牧野博士の教育普及にかけた情熱は今も尚、受け継がれているのです。

生涯を掛けて制作した「牧野日本植物図鑑」は晩年の寝たきりの生活の中でも、可能な限り改訂が続けられました。




本書は、100版70万部以上という大ベストセラーとなり、現在も研究者や愛好家の必携の書物となっている。

自身の事を「草木の精」と呼ぶほど生涯植物を愛し、植物の魅力を伝えてきた。

その功績は今尚、我々に植物の魅力を伝え続けているのです。



✿APG
(被子植物系統発生グロープ)
これまでの植物の構造や形態を観察して、植物系統の分類がされていたのに対し近年の遺伝子解析によって、形態によらず遺伝子的に近縁かどうかで植物系統の分類をしたもの。
将来主流になると言われている分類方法です。




全てフルカラーの図で掲載され、写真ではわかりにくい植物の葉や茎の細やかな特徴が良くわかる。

分布地域や生態、形態、和名の由来なども解説しています。

また季節によって変化する花や実の様子、根の状態も一目でわかりやすい。


❆牧野富太郎(まきのとみたろう)
1862〜1957年。
植物学者、理学博士
生涯で収集した40 万点に及ぶ標本や観察記録、書き残した植物図合わせて1700枚以上を残す。


✿高知県立牧野植物園
牧野博士の業績を顕彰する為
1958年に開園。

西日本の野生植物を中心に、博士ゆかりの植物など約3000種の植物を観賞できる。

〒781-8125
高知県高知市五台山4200-6
TEL:088-882-2601


牧野博士が愛した花💠バイカオウレン

バイカオウレン(梅花黄連)はキンポウゲ科オウレン属の多年草

別名=ゴカヨウオウレン(五加葉黄連)

早春に白い花を咲かせ、冬になっても葉が残る常緑の植物です。


         「バイカオウレン」



牧野博士の言葉として知られる「雑草と言う草はない」

実は牧野博士が書いた書物にこの言葉は記されていない。

時代作家として有名になる前の「山本周五郎」の担当になった新聞記者が、インタビューの時に何度も聞かされた牧野博士の言葉として、著作に記したものです。

この事実は帝国データバンクの史料館の学芸員の協力を得て判明した事です。