梅にまつわる話
梅の起源、伝来、花木の歴史は古く、今から二千年前にはすでに存在していたと言われています。
明確な歴史は不明とされ、二千年前に発行された中国最古の薬物学書の『神農本経』の中に梅に関する記述があることから、そう伝えられるようになったと考えられています。
その薬物学書にはすでに梅の効用が説かれている。
また、日本に梅が伝来したのは3世紀の終わり頃とされ、その伝来には諸説がある。
一つは、百済の帰化人、王仁がもたらしたとする説
❉百済(くだら、ひゃくざい、ペクチャ)は朝鮮半島南西部を占めた古代国家で、4世紀頃から唐、新羅連合軍に滅ぼされる660年まで存在し、新羅(しんら、しらぎ)や高句麗(こうくり)とともに朝鮮半島に存在していました。
❉王仁(わに)とは、古代百済から渡来した学者のこと
百済の滅亡によって日本(倭国、わこく)は朝鮮半島から完全に切り離されてしまった。
百済滅亡は日本にとっては大事件だったのです。
もう一つの説は、欽明天皇の大和時代に中国、呉の高僧がもたらしたという説
❉欽明天皇(きんめいてんのう、509〜571)は531年に即位し、日本の第23代天皇となりました。
古代中国の歴史書「書経」には梅の産地中国では、紀元前600年頃には梅漬けの酢を使った「塩梅」という調味料が存在していたと記されている。
また、現存する農業書である「斉民要術」には梅の加工品には烏梅、白梅、蔵梅があったことが記されている。
✫烏梅(うばい)は、完熟した梅の実を燻製にして作られたもので、濃縮された酸味が強いため、薬用とされていました。
✫白梅は、熟した実を塩水につけ乾燥させた食品。
✫蔵梅は、日本で言うと砂糖漬けのようなものであったとされる。
日本で普段食べている「梅干し」は日本独自のものである事が窺い知れる。
「梅干し」という名称は文明10(1478年)の室町時代では「むめつけ」と言われ、明応2(1493年)には「梅つけ」との記述があり、延宝8(1680年)江戸時代には「梅ほし」と記述されており、時代ごとに呼び名も異なっていました。
当時の梅干しは現在のように広く民に知られた存在ではなく、塩が希少であった室町期まで梅干しは高級品とされていました。
果実が注目されて生産されるようになったのは江戸時代以降ですが、日本独特の「梅干し」という優れた健康食品の開発とともに、各地で多くの品種が作り出され、現在でも和歌山や水戸などの特産品として残っています。
日本の文献に「梅」という文字が最初に現れるのは日本最初の漢詩集とされ、懐風藻(かいふうそう、751年)の中に収められています。
現存する日本最古の「万葉集」歌集にも梅を題材とした和歌が数多く記されています。
❉万葉集=桂本万葉集(平安時代中期)、西本願寺本万葉集(鎌倉時代後期の写本)
『万葉集』は7世紀前半から759年までの約130年間の歌が収録されています。
万葉集では桜に比べても梅が圧倒的に多く詠まれています。
それは、中国から渡来した珍しいもので、美しい花を咲かせた梅であったことや、春を呼ぶ花として季節が変わりゆくさまや、喜びの気持ちを梅に託して詠んだのでしょう。
菅原道真は梅をこよなく愛した人物として有名
梅干しの種の中身を俗称で「天神様」と呼ぶが、その天神様とは、平安期に右大臣として活躍し、学問の神様として広く信仰される菅原道真=すがわらのみちざね(845〜903)や、道真を祀る天満宮の事を言う。
道真は梅にまつわる歌を多く残している。
梅干しの種の中心部分を「天神様」と呼ぶようになったのは、江戸時代の半ばで「梅を食うとも種食うな、中に天神寝てござる」という歌が庶民に語られるようになり広まったとされる。
梅の種は食べ過ぎるとお腹に良くないと考えられていたため、特に子ども等が誤って食べてしまわないように、人々が知恵を絞ってこのような歌を作ったのかも知れません。
人々の天神信仰という事もあって、道真が愛した梅の種の中に「天神様が宿っている」という伝えは、庶民にはとっても素直に受け入れられたのではないだろうか。
梅の種を粗末に扱うことのないようにと、太宰府天満宮には江戸時代に「梅の種納め所」が設けられていました。
この種納め所は、現在も太宰府天満宮本殿の右側に残っています。
❄梅の種納め所
天保15年(1845年)正月建立
所在地=福岡県太宰府市宰府4丁目7
太宰府天満宮
幼少期の頃、我が家では梅の種を海に投げ捨てると海が荒れるから、捨ててはいけないという言い伝えがあった。
実際に行って見たことはないが、先代の伯父さんが小漁師をやっていた事も関係があるのかも、しかし現実に起きるのかは定かではありません。
梅は咲いたか?桜はまだかいな?
梅は咲いたか 桜はまだかいな
ただ ただ ひらひら
華麗に待ちわびる花
梅は咲いたか 桜はまだかいな
この歌は江戸時代から明治時代の花柳界で流行った端唄(はうた)で、このあとの歌詞に、「柳やなよなよ風次第 山吹や浮気で色ばかり しょうがいな」と続く。
しょんがえ節という流行歌を基にした江戸端唄で、花柳界の芸妓たちを季節の花々に例えて歌っています。
花柳界の芸妓の世界では、梅は若い芸妓、桜は上の姐さんといったところでしょうか。
端唄は邦楽の一種で三味線を伴奏として歌う。
端歌、葉歌、破歌、葉唄などの表記があり、時代や地域によって定義が異なる。
端唄は、江戸時代中期に江戸市中で好まれて唄われた大衆はやり唄で、小唄の母体となるもので、小唄に比べると表現の仕方はあまり技巧的(精巧的技能)ではなく、撥(ばち)弾きであるため華やかとされる。
花言葉と飛梅伝説
梅の花は寒さや厳しい環境にも耐え咲くことから、逆境にも負けずに高潔な態度を持つことを象徴しています。
積極的で良い意味の花言葉が多いことから、特に贈り物として渡しても喜ばれると思います。
花言葉の「忠実」は菅原道真の飛梅(とびうめ)伝説が由来とされる。
日頃から庭の桜や松、梅の木との別れを惜しみ、「東風(こち)吹かば にほひおこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」
現代語に訳すと、梅の花よ、春風が吹いたら香りを太宰府にまで届けておくれ、私が居ないからと言って、咲く春を忘れてはいけないよという意味の歌です。
主人との別れを受けた桜の木は、悲しみの余り耐えきれずに枯れてしまった。
松と梅の木は主人のいる太宰府を目指すが、松の木は途中で力尽きてしまった。
辿り着けたのは梅の木だけでした。
この伝説が「忠実」という花言葉の由来とされています。
太宰府天満宮の樹齢千年を超える「飛梅」はご神木として現存しています。
この梅の木は境内のどの梅の木よりも先に開花するという。
梅干しは三毒を断つ
梅干しを食べると体の様々な不調の改善が期待できるということわざで、この事は日本に現存する最古の医学書「医心方」にも記載されている。
❉医心方(いしんぽう)とは
平安時代に宮中医官を務めた「鍼博士の丹波康頼」が、中国の多くの医書を引用して病気の原因や治療法を述べたもので、日本に現存する最古の医学書とされている。
丹波康頼=たんばのやすのり(912〜995)
三毒とは、「水毒」「食毒」「血毒」のことを指しますが、それぞれの具体的な意味は、水毒は体の水分の汚れを改善するとされる。
食毒は、暴飲暴食や食あたりなどの食事による毒の改善。
血毒は、血液の流れが原因の毒の改善とされる。
梅に由来することわざは多く存在しています。
梅がいかに日本人の生活に根付いていたものかをこの事からも窺い知る事ができるだろう。
現在の梅は大別して観賞用の花梅と、果実栽培用の実梅とに分けられますが、みうの中にも美しい花をつける物が少なくありません。
梅は花木として日本人に愛され、観賞用が先行し、花色や花形なとを多様な品種が多く作り出されてきました。
梅は早春を飾る花木として、桜と並び重要な役割を担っています。
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