お茶の歴史
お茶の歴史は、中国で薬として発見されたのが始まりとされています。
紀元前2700年頃、神農が薬としてお茶を発見したとされています。
当時のお茶は、葉を食べんもので薬として用いられていました。
神農は紀元前2740年頃に活躍した皇帝とされ、炎帝神農とも呼ばれた、古代中国の伝承に登場する三皇五帝の中の三皇(伏犠=ふっき、女媧=じょか、神農=しんのう)の一人。
五帝については配列や人名に諸説があるとされています。
神農は人々に医療と農耕の術を教えました。
神農神話
神農は毎日無数の草を食べる中で、毒気に当たることはなかったのかと言う話があるが、実際には1日に70回まで毒気に当たったそうです。
しかし、あらゆる毒素を解毒する葉を見つけていました。
それが茶です。
120歳まで生きたとされる神農は、「断腸草」と言う薬草を試した時、解毒剤に間に合わず亡くなったとされています。
常にお茶があるわけではなかったのです。
お茶の伝来
お茶は奈良、平安時代に遣唐使や留学僧によって日本に広まりました。
記録では、延暦24年(805年)に最澄(さいちょう)が唐からお茶の木を持ってきて近江の坂本にうえたとあり、これは今での日吉茶園として残っています。
最澄(767〜822年)は平安時代初期の日本の仏教僧=伝教大師
奈良時代から、日本人の暮らしとは切っても切り離せないお茶が緑茶です。
日本茶とも呼ばれることから日本文化のお茶と言えます。
鎌倉時代になると、臨済宗の開祖、明菴栄西(みょうあんえいさい、1141〜1215年)が宋に2度渡り、帰国の際にお茶を持ち帰ったのがきっかけで普及しました。
江戸時代のはじめまで緑茶は茶葉ごと飲むものでした。
今でも抹茶は粉にして葉を丸ごといただいています。
江戸時代には、幕府の儀礼に正式に用いられ、武家と茶の湯は切っても切れない関係となっていきました。
中国南部やタイなどでは、発酵させた茶葉を漬物として食べています。
1738年、宇治田原郷の永谷宗円(ながたにそうえん)は、製茶方法を丁寧な方法に改めて、優れた煎茶の製法を編み出した「煎茶の祖」と呼ばれています。
宗円が生み出した製法は「宇治製法」と呼ばれ、18世紀後半以降全国の茶園に広がり、日本茶の主流となっていきました。
また、より高級な煎茶を開発しようと「覆下栽培」を煎茶に応用する試みが行われ、1835年山本嘉兵衛(やまもとかへえ)により「玉露=ぎょくろ」の製法が生み出されたとされています。
覆下栽培(おおいしたさいばい)とは、お茶の栽培方法のひとつで、茶の木をわらやむしろなどで覆って育てる栽培方法で、被覆栽培とも言われています。
茶葉を食べる
緑茶はスーパー健康食品であり、「日本茶を食べる会」と言う団体もあります。
無農薬、有機栽培のお茶を扱う業者が参加して「食べる」お茶文化を広げています。
お湯に溶け出すお茶の有効成分は、ビタミンCやタンニンの一種のカテキン、アミノ酸、カフェインなどが含まれています。
これらの成分は、1回出した茶がらには約40%、2回出した茶がらには約20%残っています。
また、不溶成分の食物繊維、ビタミンA.E、ミネラル、脂質などの栄養素がまだ含まれており、捨てるのはもったいないことです。
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