資本主義社会による破壊活動と影響
働けど 働けど猶(なお)
我が暮らし楽にならざり
じっと手を見る。
歌人、石川啄木が明治の末年(ばつねん=時代の終わりの頃)、自分の貧しい生活の思いを詠んだものであるが今、世界中でも啄木がこの歌を詠んだ時以上の深刻さで、コロナ禍も影響し、貧困と格差の拡大が止まらない。
高度な経済を基盤にした、文明社会を目指したはずの現代社会でなぜ?貧困と格差が広がるのか!
どこにその原因があるのか!
18世紀の中頃、資本主義はすでにイギリスで社会の支配的な体制となり、フランスやドイツなどヨーロッパの大陸諸国にまで広がって、経済の新しい発展の時代を開いていました。
日本では、明治時代になり本格的に欧米の資本主義システムを導入しました。
元々生産に携わる庶民の貧困問題は、昔からどこにもありました。
18世紀末、フランス革命に民衆が立ち上がったのも、封建社会による貴族や地主の搾取の酷さに大きな原因があったからです。
今と違っていることは、その頃は搾取の姿が目に見えて分かっていた事です。
その後、領主や政府が強制的に取り上げる、こういう封建制度は革命によって廃止されました。
しかし、かつての強制関係は一掃されたはずなのに、新しい体制で働く労働者たちの生活は封建社会の農民より、更に苦しいものとなったのです。
資本主義による搾取は、封建社会での「年貢」の取り立てとは違って、その仕組みも姿もはっきり見えないと言う所に大きな特徴があります。
資本家と労働者は、市場経済の下での対等の関係を結んだはずなのに、そこから驚くべき貧富の格差が生まれたのです。
生産した富は資本家の側に集中し、生産者である労働者の側は困難な暮らしが続いた。
いったいこんな不公平な状態はどこから生まれてくるのか。
労働者が資本家に売っていたのは「労働」ではなく労働をする能力=「労働力」だと言うことです。
「労働力」と言う商品の価値は、他の商品と同じように、その商品の再生産の費用で決まります。
再生産の費用は、労働者が引き続き働ける状態を維持する費用ですので、労働者とその家族の生活費と言うことになります。
資本家は買い入れた「労働力」を消費する。
つまり自分の工場で働かせます。
「労働力」と言う商品は、これを働かせることである新しい価値を生み出すと言う、他の商品にはない特性を持っています。
なので、ある時間働けば賃金分の価値を生み出しますが、そこで仕事をやめさせる資本家はいないでしょう。
必ず、賃金分に相当する時間を超えて労働を続けさせます。
その時間帯に生み出された価値は、まるまる資本家のものになります。
これが剰余価値で経済学では、賃金分の
価値を生み出す労働時間を「必要労働時間」と呼び、それを超えた労働時間を「剰余労働時間」と呼びます。
資本家が市場経済の法則に従って、世間並の生活が出来るだけの賃金を支払ったとしても、その分を埋め合わせるのに必要な労働は、1日の労働時間の一部分に過ぎません。
それ以上の労働時間は剰余労働であり、資本家は間違いなく剰余価値を手に入れることができます。
これが資本主義の搾取の仕組みです。
剰余価値の生産こそが、資本主義的生産の絶対的な目的であり、決定的な意味を持つ動機である。
そもそも資本家が自分の持つ貨幣を、様々な事業に資本として投資するのは、剰余価値を手に入れて資本を増殖させるためです。
資本主義社会では、富の蓄積と言うのはただの溜め込みではない。
資本家は絶えず資本を生産に投じ、剰余価値の生産の規模をひたすら拡大することであり、「生産のための生産」が資本主義である。
「労働力」こそが剰余を生み出す源ですから、資本は買い入れた「労働力」からできるだけ、多くの剰余労働を絞り尽くすことに、あらゆる知恵と手だてを尽くしているのです。
世界的規模での「生産から生産」を必要以上に進めたけ結果、地球全体の環境破壊を引き起こすことになった。
地球大気という「生命維持装置」は、人類と人類社会が誕生してからも、資本主義の時代になるまでは、その機能を破壊するような事態が起きたことは一度もありません。
地球大気の状態に、地上の生命を脅かす危険が現れ、目に見えるようになったのは20世紀に入ってからのことです。
現在起きている地球温暖化や気候変動は自然の作用よる現象ではなく、明らかに人間の経済活動が引き起こしたものです。
これは、1世紀半にも満たない間に急激にエネルギーの消費量が膨張したことであり、「生産のための生産」を旗印に剰余価値の拡大の道をひたすら突き進んできた、資本主義的生産のあり方が原因であることは紛れもない事だろう。
地球規模で破壊を続けてきた資本主義社会であるが、人類に対するその責任を果たすことはもはや出来ない所に、辿り着いたと言えるだろう。