食糧難の戦時下
戦争で亡くなった者の多くは餓死や感染などである。
昭和20年、終戦を迎えても日本に帰ってこれない日本兵が多方面に多くいました。
終戦直前は全く食うものがなくなり、椰子(ヤシ)を倒しその梢の実を食べていました。
飲み水代わりは椰子の実の水でした。
赤道直下は一年を通してほとんどスコールがない。
ジャングルでの生活は、テレビで観るような太古の原始人の生活そのものであったと言う。
栄養不足によってマラリアになり、多くの兵士が亡くなった。
戦地の現状は、戦争をしている場合ではなかったのです。
インドネシア北マルク州、ハルマヘラ島のジャングルの中では、さつまいもを育てたと言う。
苗を植えてから1ヶ月程でごろごろと大きな芋ができたと言う。
しかし、この世にこんなにまずい芋があるのかと言う程の芋だっと言う。
同じ戦場でも海軍防備衛所隊の生活は、設営隊の作った床板張りの兵舎に住み、白米にさつまいもやタピオカを混ぜた飯を食べての生活で、これを見るとつくづく陸軍部隊の哀れさを感じたという話がある。
✪海軍防備衛所(隊)とは
大日本帝国海軍が、重要港湾、海峡などへの敵潜水艦侵入を阻止するために設置した陸上拠点のことである。
1943年(昭和18年)1月以降、原則3個の防備衛所を有する12隊の衛所隊が編成され、西はビルマから東はラバウル方面まで、各地に派遣されその後、1944年9月までにすべての隊が解隊された。
戦中、戦後と、どれだけの人々がさつまいもに救われた事だろう。
今でも栄養失調はマラリア等による死亡を増加させるが、マラリアが残るアフリカの一部の地域では、子どもの栄養不良の約3分の1がマラリアによって引き起こされています。
特に重症の貧血に陥ることが多く、その後の発育に大きな影響を及ぼしている。
昭和40年代でもさつまいもが主食だった我が家では、白米を満足に食べたという記憶がない。
学校給食ではなかったため、弁当箱にはさつまいもとサバが定番であった。
ウイナーなど色鮮やかな食材が普及し始めていた頃であった。
さつまいもを蒸した弁当を教室で食べる事が出来なかった。
その事に気がついた先生が、職員室で食べるようにと
声をかけてきた。
とても優しい先生、自分の弁当と交換してくれた。
止めどなく泣いた記憶が残っている。
小学校を卒業するまでは紛れもなくさつまいもが主食の家庭であった。
今から50年前の話である。
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