緑のお医者の徒然植物記

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2022/07/20

大飢饉を救ったのはさつまいも No.578

 江戸時代に起きた大飢饉

さつまいもは江戸時代の大飢饉で多くの人の命を救った作物であり、また戦時中でも食糧難に陥った日本を助けてくれた救荒作物です。


江戸時代の大飢饉

天保の飢饉
天保の飢饉は、天保4年(1833)から同7、8年にかけて全国を襲った飢饉で、天候不順による深刻な冷害で凶作となった東北各地で多数の餓死者を出した他、天保8年には大阪で困窮民に対して救済措置を取らないことに激怒した大塩平八郎が、豪商を襲撃して(大塩平八郎の乱)火を放つなど各地で、一揆や「打ちこわし」を誘発した。

この飢饉での死者は、餓死、疫病死を含めると全国で、20~30万人達したと推定されている。


★大塩平八郎の乱とは
儒学者、大阪町奉行組与力であった大塩平八郎が起こした反乱である。

1837年に大塩平八郎が起こした反乱で、飢えにあえぐ民衆たちを救うため、私利私欲を肥やしていた大坂の豪商を襲って金銭や米を奪ったのである。

反乱は1日で鎮圧され、反乱に関わった人たちは厳しく処罰された。

この反乱で7万人程度が焼け出され、焼死者は270人以上、その後の餓死者や病死者を含めるとそれ以上だと言われている。


◉打ちこわしとは
民衆が米屋を始め、質屋、酒屋などの富豪を襲撃し、家屋の破壊や家財の略奪などを行う暴動の事で、民衆の怒りが集中したことで起きた騒動である。


天明の飢饉
天明年間(1781~1789)の大凶作によって全国各地に深刻な飢饉をもたらした。

特に東北地方の状況は悲惨なもので、天候不順に領主側の判断ミスも重なって多くの餓死者が出ました。

津軽藩(現青森県)だけで死者は10万人に達したとされる。

天明3年に起きた浅間山大噴火も、大気中に大量の微粒子を噴き上げた事によって冷害の原因の一つとなり、飢饉を悪化させることになったと言われています。

食糧を求めて領外へ逃亡する民や、力尽きて餓死する人々が増えていった。

そして飢饉の余り、牛馬、犬猫はもとより人間の死肉を喰う人の姿もあったと言う。


享保(きょうほう)の大飢饉
享保17年(1732)では気候不順による作物の成育不良に、大規模なウンカ(稲の害虫)などの害虫被害が加わり、畿内以西は大凶作となった。

深刻な飢饉が発生し、餓死者は一万二千人余り、死亡した牛馬も一万四千頭を超え、二百万にも及ぶ人が飢えに苦しんだと言われています。

特に筑前福岡藩領だけで、6~7万人が餓死したと言う推計もあるがしかし、実際の餓死者の数はこれをはるかに超えていたと思われる。

翌18年は豊作であったため、飢饉は比較的短期間で終息したが、この飢饉は江戸の町に飛び火しました。

そのため、大量の救援米が西国に回された結果、江戸の米価が急騰することになった。

そして日本橋の米問屋(高間伝兵衛の店)が襲撃されてしまう事になったのである。

「高間騒動」は江戸時代の都市における最初の「打ちこわし」事件となったのです。


寛永の大飢饉
江戸時代初期の1640年から1643年にかけて起こった飢饉。

大飢饉を起こす背景には、1630年代から1640年代における東アジア規模の異常気象などによる凶作から飢饉が発生しているが、そのなかでも寛永に起きた飢饉は最大であったとされる。

「島原の乱」とともに江戸幕府の農政転換にも影響したのである。

★島原の乱とは
(島原、天草の乱、一揆とも呼ばれる)
江戸時代初期に起こった江戸幕府のキリシタン弾圧に対する反乱。

日本の歴史上最大規模の一揆であり、幕末以前では最後の本格的な内戦であった。


さつまいもは江戸時代の大飢饉で、多くの人の命を救った作物。


さつまいもを江戸(東京)に初めて持ち込んだ人物は「青木昆陽=あおきこんよう」とされ、芋神様と地元では呼ばれ、昆陽神社と言う青木昆陽を祀った神社がある。



△昆陽神社
住所=千葉市花見川区幕張町4=803


青木昆陽の墓所がある瀧泉寺目黒不動尊では、毎年命日の10月12日「昆陽会=こんようえ」と毎月28日の不動縁日に合わせて「甘藷祭り」が開かれる。


1732年に起きた大飢饉の際に、日本各地で多くの餓死者が出ました。

さつまいもを取り寄せて栽培していた伊予潘(愛媛県)では難を逃れました。


その事を調べていた青木昆陽は、徳川吉宗に懇願し、さつまいもの栽培を促したとされる。

大飢饉を乗り越えることが大切な職務であることを認識した徳川吉宗は、関東でのさつまいも栽培を命じました。

学者であった青木昆陽は栽培に精力的に取り組む中で大変苦労したそうです。

西日本中心で作られたさつまいもの品種は、環境が異なる関東で栽培することは難しい事であったが、数年の歳月をかけてさつまいもの栽培に成功した結果、栽培法が関東や離島に伝えられ、1792~1976年に再び起こった大飢饉では多くの人命を救う事となる。


◉八丈島甘藷由来碑
八丈島の文化財

慶応4年(1868)菊地馬之助は祖父、父の功績を讃えて建立した碑である。


★八丈島甘藷由来碑
東京都八丈町大賀郷


古来から芋を朝食にしていた八丈島では、芋と言うのは里芋のことで、さつまいもは後から伝わったものです。

1723年(享保8年)に伝わっていたが普及することはなかったとされる。


後の1811年(文化8年)になって菊地秀右衛門が赤さつま種を、翌年に子である小源太がハンス種を新島から持ち帰り、全島に普及したものとされる。

八丈島ではさつまいもの伝来により、飢饉の回数と被害が減ったばかりか人口も増えると言う食糧革命が起きた。


八丈島ではさつまいものことを「かんも」と言いますが、これは唐芋からかんもと呼んだものです。


♣五島いものルーツ
五島列島(長崎県)

我が故郷五島列島の名物に、さつまいもを原料としたかんころ餅や芋焼酎などがある。


五島福江島にはさつまいもが伝来した歴史を示す碑がある。






現在の五島芋の苗の元になったものが持ち込まれたのは江戸末期(慶応1865~1868年)で、それ以前にも栽培は行われていたが、育てるには十分な環境ではありませんでした。

この碑は新たにさつまいもを持ち込み、今日にまで至るきっかけとなった証の碑です。

当時★富江で商いをしていた田原伝吉が鹿児島からさつまいもの苗を仕入れ、さつまいもの苗につてい研究していた田中庄三郎にそれを与え、一般に普及出来るように努めた事が現在の五島芋苗のルーツになっている。

この両名がいなかったら五島でのさつまいも関連の名産品は、産まれていなかったかも知れません。


★五島列島最南端に位置する福江島、富江地区はそのまた南部に位置する古くから「珊瑚の町」として知られる。

大正から昭和初期には珊瑚の採取とカツオ漁が盛んであった。


二人の貢献を記念して建立しのが顕彰碑と言う事です。





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救荒作物サツマイモ No.572