子どもらの未来も命も奪う戦争
駅の子や浮浪児と呼ばれた子どもたち
駅の子は太平洋戦争後に親を亡くしたり、離れ離れになったりして全国各地の駅などで寝泊まりしていた戦争孤児をそう呼んでいた。
戦争で親を失った子どもは12万人に及んだと推計され、親元に帰れず駅を拠点に路上生活を強いられた。
浮浪児などとも呼ばれ、地域によっては駅前小僧と呼ばれるなど呼び名は様々であった。
汚いと罵られ、助けを求める声も届かず、国や大人たちからも放置され、差別や排除の対象になった。
自国に虫けらのように扱われた子どもたち
行政や一部の人々によって集められた身寄りのない子どもらは、地方の山中などに連れて行かれ放置されたり、収容されたりした。
子どもらは過酷な環境下で生き延びるため、農作物や物乞いなどで食料を得て戦後を生き抜きました。
しかし全ての子どもが生き抜けたわけではありません。
餓死する子どもらも多くいたのです。
施設収容などを名目にトラックなどで集められ、見知らぬ山奥などに置き去りにされた子どもらも多い。
お弁当を買ってあげるなどと声をかけられ、連れて行かれた後、放置されるという裏切りもあった。
孤児を集める事を「狩り込み」といい、その行為は27年まで続けられたとされる。
国にも大人にも見捨てられた子どもらが確かにいたのです。
当時は東京養育院と言う施設に収容される事が多かったとされている。
東京養育院は明治5年(1872年)に作られ、日本最古級の困窮者保護施設で、渋沢栄一が深く関わり発展させたが、1999年に廃止となった。
東京養育院と言う名称はなくなりましたが、明治時代から続く公的な福祉、医療事業の歴史と役割は、現在の東京都健康長寿医療センターをはじめとする様々な形で今も東京都の福祉を支えています。
1990年以降、戦争孤児と言う名称は戦争責任が曖昧との主張があり、また引き揚げ孤児、残留孤児、混血孤児、浮浪児等、広く戦争による孤児を含めた総称として戦争孤児の名称を使用する動きもあった。
日本では第二次世界大戦でアメリカ軍による日本本土への空襲や、広島、長崎への原子爆弾投下により、多くの子どもらが家族を失い孤児になりました。
戦後、特にそれらの戦災による孤児を指す言葉として戦災孤児の言葉が使用されるようになった。
防空法が原因で孤児
もう一つの孤児になった原因として考えられるのが防空法と言う戦時中の法律です。
防空法とは、1937年、第二次世界大戦中に日本で制定された法律で、空襲による被害を防ぐため、国民に夜間の明かりを制限する灯火管制や防空訓練への参加を義務付けした法律です。
敵の戦闘機に見つからないように家から明かりが漏れないようにする事を義務付けしたのです。
その後1941年に法律が改正されると、「逃げるな、火を消せ」を原則とし、避難や消火活動への協力を強制しました。
当初は統制を目的とすることであったが、次第に国民の生命よりも戦争遂行を優先する内容に変貌し、多くの犠牲者を出した法律である。
1943年の改正では、防空を妨害する行為に対する死刑を含む厳しい罰則が規定されました。
国民を守ると言うより戦時下の統制強化と戦争遂行のための国民動員が主な目的だったのです。
政府やメディアにより「逃げるな」が徹底され、空襲で多くの市民が避難できず、家族もバラバラになり、生死も分からない状態になり被害が拡大しました。
この惨状の中で多くの子どもらが孤児になったのも事実である。
この法律は終戦後の1946年1月31日廃止されました。
少子化が叫ばれる現代、軍事拡大を強固に進めようとしている日本政府は、再び同じ過ちを犯すのではないか、その疑念は消せない状況になりつつある、そんな気がしてならない。
0 件のコメント:
コメントを投稿