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日曜日, 5月 24, 2020

山本懸蔵の憧れた時代へ 特別編 No.224

山本懸蔵


                   「山本懸蔵の碑、碑文」


山本懸蔵は「山懸=やまけん」の略称で呼ばれた労働運動家及び日本共産党の活動家である。


茨城県鹿島郡矢田部村(現神栖市)
1895年(明治28年)2月20日生


大正11年に共産党に入党、14年日本労働組合評議会結成に参加。


昭和3年2月1日、党中央委員会の非合法中央機関紙「赤旗=せっき」が創刊された。


「赤旗」は創刊された時から一貫して、反戦、平和、自由と民主主義、国民の権利と生活擁護の旗を掲げ続け、命をかけて真実を報じた。


「赤旗」を持ってるだけで逮捕、投獄を免れない困難な状況のもとで、非公然の地下の編集局と印刷所でつくられた。


靴の敷き革の下や工具の中に潜ませて、労働者や農民の手から手へと渡された。


総選挙を通じて、国民の前に存在を現した日本共産党の前進を恐れた、天皇制政府は日本共産党に対して、全国一斉の大弾圧を加え、党員と党支持者を検挙し野蛮な拷問を加えたのだ。





また、日本共産党が反社会的な、陰謀家集団であるかのような、印象を与えようとする、キャンペーンを大々的に展開したのである。


天皇制政府と支配階級は、差し迫った侵略戦争の✣「銃後」を固めるために、侵略戦争反対、自由と民主主義の旗を掲げ、人民の利益を擁護して不屈に闘う日本共産党を暴力で圧殺しようとしたのである。

✣銃後とは
戦場の後方。
直接戦闘に加わらない一般国民。



昭和3年3月15日の日本共産党への大弾圧の際、山本懸蔵は検挙を免れ、日本を脱出してソ連に渡った。

(3.15事件、共産党関係者一斉検挙)
の事である。

その後同国で活動を続けた。

1937年(昭和12年)11月2日ソ連の弾圧機関によって、日本の政府、警察のスパイとしてでっち上げられ「国家反逆罪」と言う根拠のない罪状で逮捕された。


スパイとして密告したのは、他でもない同士であったはずの、野坂参三だったのだ!


◆1939年(昭和14年)3月10日山本懸蔵は処刑(銃殺)された。
享年44歳




事件後50数年を経て、日本共産党は山本懸蔵、杉本良吉、国崎定洞がソ連最高裁判所軍事法廷で、銃殺刑の判決を受け、銃殺されたことをロシア当局から正式な回答として確認。


山本は1956年(昭和31年)国崎と杉本は1959年(昭和34年)に、彼らへの告発、判決は根拠なしとされ完全に名誉を回復した。


自国政府(日本)から迫害され、秘密の内にソ連に入国し、名前も変えて活動していた。


スターリンは、こうした事情を弾圧に利用し、秘密裏に逮捕処刑し、その真相を隠蔽したのである。


治安維持法などによって、非合法な状態に置いてきた戦前の天皇制下の政治も、スターリンの弾圧を容易にしたと言う点で言えば、重大な責任があると言わざるを得ない。


山本の死亡から53年後の1992年9月、党は野坂参三が山本懸蔵に関する根拠のない疑惑を★コミンテルンの書記長に密告した、1939年2月の書簡のコピーをモスクワで入手した。


★コミンテルン=1919年から1943年まで存在した、国際共産主義運動の指導組織で、別名第三インターナショナル、第三インター、国際共産党と呼ばれていた。

設立者はウラジーミル·レーニン(ロシア モスクワ)


野坂は、この書簡を自分が書いたことであることを認めた。


その内容は事実を偽ったり、根拠なく山本を告発した重大なものであった。


そのことは山本がソ連当局によって、無実であったとして、名誉回復された事からも明白に立証されていた。


野坂は、山本の銃殺に関わる真実を、党に報告する機会がありながら、この事を全く報告しなかった。


そればかりか、逮捕された山本の救出のために、努力したかのように事実を全く逆に描いていたのである。


事実はソ連共産党と野坂本人、山本の夫人しか知りようのない事であり、野坂本人が告白しない限り知り得ないことであった。


野坂は自らの個人的利益を、党の革命的事業に優先させて、自己の保身をはかるため、スターリンの不当な弾圧に積極的に加担する立場に身をおき、これを実行した。

許しがたい行為を行ったのである。


野坂は山本の死亡年月日や死の原因まで捏造していたのである。


野坂執筆の文章の中で、山本は1942年4月11日に結核が悪化して死亡したと発表されてきました。


山本の無実を早くから知りながら、野坂は長期に渡り誤魔化し、嘘をつき続けていたのです。


また、ソ連に渡っていた山本夫人の帰国を妨害した。

真実が山本夫人の帰国によって、暴露されることを恐れたからである。




2020年5月24日草取り、昨年10月下旬に剪定したサルスベリも新梢を伸ばし始めていた。


1968年山本夫人(関マツ)はモスクワで死去した。

25年後の1993年に党は、関マツの遺骨を引き取り、日本共産党常任活動家のお墓に合葬しました。


野坂は、その後も国会議員でありながら、長期に渡りソ連共産党などと連絡をとり、その事を党に報告しないできた。


50数年間も裏切り行為を行っていた、恐ろしい人物である。

1992年(平成4年)12月、野坂参三に除名処分の決定が下されたのであった。


山本懸蔵、杉本良吉、国崎定洞の無念は計り知れないものである‼️


◆殺伐とした時代が悪いのか、いつの世も人類は、戦争をひき起こし、他国に干渉する国々がある。


繰り返される度に犠牲になるのは、弱小で権力もない人々たちである。


一握りの人たちの欲望のために、繰り返される惨禍が再び起きないこと、世界平和を願う事は唯一の平等の願いと云えよう。


野蛮な時代の権力政府でなければ、山本懸蔵はソ連に逃げる事もなかった。


祖国の土を踏むこともなく、無念の叫びも届かず……死んで行くこともなかったと、、、

それが血も涙もない戦争なのです!

合掌

❆後記
現政権自民党の前身とも言える組織が、戦前、戦中、戦争反対を貫き平和への道を訴え続けた日本共産党を弾圧し続けた。


仲間同士が裏切り合う道を選ばなければならない、それが戦争でもある。


戦争で、自ら子どもさえも殺してしまう、それは仕方のない事なのだろうか?


戦後も日本共産党への弾圧体制は変わらなかった。


日本政府は、他国の共産主義国と日本共産党を、一緒の扱いにしなければならない理由がある。


それは現政権が大企業や富裕層と塊、その地位を戦前から不動にしてきた体制を崩されたくないからである。

根底に民主主義、国民主権を否定し、許さないと言う思想に他ならないのである。


いつの世も苦しめられるのは庶民であると言う事は、戦前から然程も変わっていない!

2020年5月24日


✿山本懸蔵碑
所在地=茨城県神栖市矢田部
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