緑のお医者の徒然植物記

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2023/12/09

銀南木の子安イチョウ No,681

 銀南木の子安イチョウ

いちょうのきのこやすイチョウ


青森県にはイチョウの巨木が多く、北金ヶ沢の大イチョウ(青森県深浦)は日本一の幹周りで22m、全国10位以内に4本のイチョウが選ばれている。

銀南木の子安イチョウは、青森県で5位になるが、県指定天然記念物となっている。

字名の銀南木からも、イチョウとともに歩んできた集落であることがうかがい知ることができる。

自らの重さに耐えきれず、幹から剥がれて傾いた枝は、先端が地面に触れて新たに幹として立ち上がり、別の株として生長している。

この子安イチョウは、この地に縁の深い法身国師のお手植えであると伝えられている。

法身(法心)国師(禅師)(1189〜1273年)は、鎌倉時代に常陸国真壁(現茨城県)に生まれました。

真壁の名僧で、俗名は真壁平四郎(法身性西禅師=ほっしんしょうざいぜんじ)

南宋(なんそう=中国の王朝の一つ)に渡り、厳しい修行を積み、後に名僧となり、帰国して国師となった。

瑞巌寺(ずいがんじ)の前身である松島円福寺を開山し、北条時頼の依頼により松島の瑞巌寺を再建したとされる。

また、津軽に法蓮寺を開いた髙僧と言われている。

79歳で故郷真壁に戻り、その後青森県北上郡の草庵で85歳の生涯を閉じました。








✿銀南木の子安イチョウ
所在地=青森県北上郡七戸町銀南木19
銀南木農村公園
樹齢700年以上
樹高24m、幹周り12.2m










2023/12/07

西蓮寺と大イチョウ No,680

 西蓮寺の大イチョウ

西蓮寺の大イチョウは、この寺を創建した最仙上人(さいせんしょうにん)によって植樹されたとされる。

昭和39年(1964)7月31日に県指定天然記念物に登録された。

1号株大イチョウは樹高約25mで幹周り約6メートル
明治16年(1833)の火災で幹が焼けて細くなったとされる。

この時の火災で建造物は消失しました。

現存する建造物は、その後の復興で建てられたものです。

1号株大イチョウの根元には子安観音を祀っています。



      「鮮やかに紅葉した1号株」



    「株元が火災により細くなった状態」




    「子安観音を祀っている1号株」


2号株大イチョウは樹高約27mで幹周り約8メートル

大正6年(1917)の台風で幹の中途が折れる被害を受けました。

根元には稲荷社を祀っています。


     「稲荷社を祀っている2号株」



    「緑の葉がまだ見受けられる2号株」



1.2株ともに樹齢は1000年以上と言われ、気根を垂れ下げている、俗に「チチ」と称されるものが数多くついて、イチョウの老樹の特徴を見せている。


   「かなり高い部分にもチチが見られる」


老樹である特徴の垂れ下がったチチ(気根)



イチョウは二億年前のジュラ紀から現存する大変古い樹種で、当時は日本にも自生していましたが、古い時代のうちに滅んだと考えられています。

日本で見られるイチョウは、中国浙江(せっこう)省の原産と言われ、飛鳥時代(593〜710年)の仏教伝来とともにもたらされ、初めは寺社を中心に植えられました。

室町時代(1338〜1573年)以降、一般に広まっていったとされる。

太平洋戦争の大空襲で焼け野原になった東京に、最初に芽生えたのもイチョウで、東京都の樹木に指定されています。

◉関連ブログ
イチョウ「銀杏、公孫樹」No,178



西蓮寺(さいれんじ)

西蓮寺は、延暦(えんりゃく)元年、天応2年
西暦782年(奈良時代)天台宗(てんだいしゅう)の僧侶、最澄(さいちょう)の弟子である最仙上人(さいせんしょうにん)によって、創建されたと伝えられている。



        「西蓮寺正門」



    「火災で消失後再建された瑠璃殿」


          「瑠璃殿」

関東地蔵霊場65番札所、関東薬師霊場78番札所、常陸七福神(寿老人)

最仙上人は、天台宗を常陸国に布教する上で大きな役割を果たしたとされる。

天台宗(てんだいしゅう)は中国を発祥とする「大乗仏教=だいじょうぶっきょう」の宗派のひとつで、妙法蓮華経(法華経)を根本仏典とするため、天台法華宗(てんだいほっけしゅう)とも呼ばれる。


大乗仏教は伝統的に、ユーラシア大陸の中央部から東部にかけて信仰されてきた仏教の宗派。

日本の仏教は全て大乗仏教であるが、大乗仏教の経典は釈迦の死後、500年以降に成立しており、仏陀(ぶっだ=釈迦)の直説ではなく、後世に成立した偽経という批判にあった。


西蓮寺の木造薬師如来坐像は、貞観時代(じょうがんじだい、859〜877年)に最仙上人が自作したものと伝えられている、茨城県内最古の木像とされる。


   最仙上人、自ら彫ったとされる木像写真






この時代は空海、最澄などの渡唐僧(唐に渡った)が密教美術を伝え、神秘的な木像が多く作られた時代と言われている。


最仙上人は現在の筑西市関本中の茶花(ちゃばな)家に生まれました。

年長になり仏教に信仰を持ち、後に日本から唐に渡って茶の種を持ち帰り、故郷関本で栽培を始めました。


茶花家の茶畑から収穫した初茶を、本尊薬師如来に献上する「献茶の儀式」が昭和初期迄続いていた。

茶花性はここから生まれたとされる。


西茨城県桜川真壁の「椎尾山薬王院」は、最仙上人が西蓮寺創建と同年に開山した古寺とされる。


◉写真撮影日
2023年12月7日

❉西蓮寺
所在地=茨城県行方市西蓮寺504











2023/12/06

三春滝桜 No,679

 三春滝桜

エドヒガン系ベニシダレザクラ 別名=イトザクラ

枝垂れ桜は細い枝が垂れるものをいう。

花弁は変異が多く個体によって形や色、大きさなどがかなり異なる。

枝が垂れる原因について、これまでは枝の上側と下側の生長速度の違いによって起こると考えられてきたが、枝や葉の生長速度が垂れない種類より速いために自重によって枝が垂れ下がり、その後木質化が起こり、垂れが
固定されるということが研究によって解明されました。

三春滝桜は大正11年(1922年)に国の天然記念物に指定されました。

樹齢1000年以上の有名な桜として、岐阜県の根尾谷淡墨桜(ねおだにうすずみざくら)、山梨県の山高神代桜(やまたかじんだいざくら)と並び、日本三大桜のひとつとして選定されている。

滝地区にあることと、滝が流れ落ちるように咲く様子から滝桜の名が付けられたとされる。

毎年開花期には、全国から多くの花見客が訪れる。

三春町の里山の斜面にはたくさんの枝垂れ桜が植えられています。

三春町の名は梅、桜、桃が春一度に咲くことに由来すると言われています。

1960年頃、三春町に植木を育てて三代目という、柳沼吉四郎によって植えられた桜が多く存在する。

また、滝桜の種を全国に普及させたことで、日本各地で滝桜の子孫樹が植樹されるきっかけとなった。

1997年頃、地元の柳沼吉左ヱ門夫妻たちは、桜愛好家の期待に応えて滝桜の種をまき、育てた50本を超える苗を全国に送り出していた。

人によって踏み固められてた滝桜は、当時、樹勢が衰えていたことから町も、樹医の診断などをもとに滝桜の周りの遊歩道の整備を行ったり、堆肥などを根元に入れるなど、土壌改良を行った。

樹勢の回復を願う、滝桜を愛する人たちに大切に守られてきました。







✿三春滝桜
所在地=福島県田村郡三春町滝桜久保296



福聚寺(ふくじゅうじ)桜

天正七年(1579年)安土桃山時代、三春から嫁ぐ事になった大名田村清顕(きよあき)の娘である愛姫(めごひめ)は、わずか11歳で伊達政宗と結婚するため三春を離れました。

その後、愛姫が三春に訪れることはなく、1653年承応2年、86年の生涯を江戸で閉じた。

愛姫のお墓は宮城県松島陽徳院にあります。

三春町御免町の福聚寺には、愛姫の生誕を記念して植えられたのではないかと考えられる桜(福聚寺桜)がある。





✿福聚寺桜
所在地=福島県田村郡三春町御免町135


推定樹齢450年以上のベニシダレザクラは、「愛姫桜」とも呼べるものでこれはひとつの浪漫かも知れません。

三春滝桜の子孫樹が平成18年12月18日(2006年)、仙台市青葉区西公園に植樹されました。

この子孫樹は三春から伊達政宗に嫁いだ正室愛姫にあやかり、愛姫桜と命名されました。









2023/12/03

秀吉ゆかりの巨木枝垂れ桜 No,678

 醍醐寺の枝垂れ桜

秀吉と醍醐寺(だいごじ)といえば「醍醐の花見」が知られています。

この花見は《北野大茶会》とは違って、内々のみで行われ、伏見城から醍醐寺まで柵が設けられ、一般の人々は見ることができない花見でした。

《北野大茶会=きたのおおちゃのゆ》は、天正15年10月1日に京都北野天満宮境内において、豊臣秀吉が催した大規模な茶会のこと。

醍醐寺の花見は、経済的にも京都を潤す目的があったともされ、秀吉なりの考えが色々とあったのではないかと言われています。

一方でその頃(1592年〜1598年)の秀吉は朝鮮出兵を行っていて、多くの武将たちは故郷を離れ戦っていたという事実もある。

さまざまな人々が大変苦しんでいた最中で、花見という遊興にふけっていた事に対し、賛否があったことも事実だろう。

京都伏見の醍醐寺は世界遺産としても知られる。

その広大な境内の中に秀吉ゆかりの枝垂れ桜はあります。

430年ほど前の昔、豊臣秀吉が近隣諸国からおよそ700本もの桜を集めて醍醐寺の花見を催した。

その時の子孫と言われる枝垂れ桜も樹勢の衰えを見せるようになっていました。

醍醐寺は枝垂れ桜をなんとかして後世に伝えたい、住友林業緑化にその相談があったのは1997年のことでした。

桜の治療や樹勢を回復されると同時に、若い後継樹を育てなければならない。

そこでバイオテクノロジーを用いて、枝垂れ桜のクローン作りに取り組むことになった。

住友林業筑波研究所で、組織培養という手法で、桜の芽の先端にあるほんの数ミリの組織だけを取り出し、特殊な培養液が入った試験管の中で殖やす試みが始まりました。

言葉で殖やすというのは簡単ですが、枝垂れ桜は少しでも培養液の成分が気に入らないとすぐ枯れてしまいます。

少しずつ培養液の成分を変え、試行錯誤を繰り返しながら2000年の暮れに、組織培養による枝垂れ桜クローン化の世界初となる、成功事例となりました。


クローン苗は高さ20㌢、花をつけ始めたのは、2004年3月でした。

花を付けたのは約600本のクローン桜のうち4本で、いずれも樹高5m程度で、薄いピンク色の花を咲かせました。

総本山醍醐寺は、東日本大震災後の平成24年(2012年)から、住友林業と京都放送(KBC京都)と共同で、『京の杜プロジェクト~桜がつなぐ架け橋~』に取り組んでいます。




クローン桜の苗が全国各地に寄贈された。

❉秀吉ゆかりの枝垂れ桜
所在地=世界文化遺産 京都醍醐寺
京都市伏見区醍醐東大路町22