自由の女神
自由の女神の正式名は「世界を照らす自由」で、1984年ユネスコの世界文化遺産に登録されています。
アメリカ独立100周年(1876年)を記念し、米仏友好の証しとしてフランスから贈呈されました。
1886年10月28日にニューヨークで、グロバー・クリーブランド大統領の出席のもと除幕式が行われ、移住者や観光客を迎えるアメリカの象徴となった。
資金難から制作は難航したが、1884年にフランスで完成した。
その後、350個のパーツに分解され、軍用船でアメリカに輸送されました。
彫刻·設計担当者はフランス人のフレデリック·オーギュストバルトルディ氏
鉄骨骨組み設計者はエッフェル塔で有名なギュスターヴ·エッフェル氏
台座の部分はアメリカ側が資金を集め、リチャード·モリス·ハント(アメリカの著名な建築家)の設計で建設された。
当初は灯台として利用され、20世紀初頭に役割を終えたが、その後アメリカの自由と民主主義の象徴となった。
1924年に国定記念物、1984年に世界遺産
右手のたいまつは自由の光を表現し、左手のプレートは独立宣言書(1776年7月4日)で、足元の鎖、足枷は「抑圧からの解放」を表している。
自由の女神はもともと内戦の終結後の、米国での「奴隷制の終了」を記念することを目的としており、自由の女神のモデルはアフリカ系アメリカ人の女性でした。
アメリカの奴隷制は1619年に、バージニア州ジェームズタウンにアフリカ人が連行されたことから始まり、1860年の国勢調査で奴隷人口は400万人に達していた。
1865年の合衆国憲法修正13条で廃止されるまで、約250年間続いた負の歴史とされている。
最初の黒人奴隷
特に南部で、綿花やタバコなどの大規模プランテーションの労働力として、黒人が奴隷として非人道的な労働を強制されました。
北部では1800年代初頭までに段階的に廃止されたが、南部では農業経済の基盤として残存した。
南北戦争(1861〜1865)の主な要因
奴隷制の存続をめぐり、工業中心の北部(北軍)と農業(奴隷労働)中心の南部(南軍)が衝突した。
1863年、リンカーン大統領が奴隷の解放宣言をし、戦争の目的を奴隷解放に定めて北軍を有利に導いた。
1865年、南北戦争終結後、憲法修正13条により、合衆国全土で正式に奴隷制度が廃止されました。
しかし、奴隷制度は廃止されたが、黒人に対する差別や権利の制限はその後の人種分離方法や、公民権運動(1950〜60年代)に至るまで長期に渡って社会問題として残りました。
自由の女神の足元の引きちぎられ壊れた鎖と足枷(あしかせ)は、抑圧と専制政治の終焉を表している。
その時代の日本の労働環境
1620年(元和6年)頃の日本は、江戸時代初期の頃で徳川幕府の支配体制(幕藩体制)が確立していました。
江戸城建設や大名の屋敷建設など、全国的な建設ブームが続いた時代です。
この時期の労働者環境は、職人を職種ごとに集団で居住させ、幕府の御用を請け負わせていました。
職人町が形成され、神田や日本橋周辺に大工、左官、木挽(こびき·製材職人)などの職人が住んでいました。
現代的な週休制はなく、正月、盆、祭り、或いは地域での年中行事の日が休日となっていました。
労働は基本的に太陽の光に依存し、日の出から日没まで働く長時間労働が標準で、現代のような時間労働制ではありませんでした。
職人は12歳前後で弟子入し、親方のもとで住み込みで修行する年季奉公がいむぱんてきてをあ、この修行期間は休みが正月と盆の「藪入り」のみという過酷なものでした。
12歳と言えば現代では小学6年生に当たりますが、貧困家庭では満足に学べなかった、家族を養う即戦力としての労働が当然化されていたのです。
学びたくても学べないのは現代社会も同じかも知れません。
封建的な雇用関係の中で、非常に厳しい規律や労働を求められた、日本も他国と何ら変わらない時代だったと思います。

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