緑のお医者の徒然植物記

Translate

緑のお医者の徒然植物記

検索結果

2021/07/02

アジサイのうどん粉病 No,514

 アジサイのうどん粉病

葉身、花(がく片)、新梢に発生する。

はじめ葉身表面に灰白色ないし白色粉状の薄い菌叢(きんそう、菌の集まり)が小円斑状に散生するが、次第に拡大するとともにお互いに癒合しやがて、葉面全体を覆うようになる。

古い病斑は、雨水に洗われて菌の集まりがまばらになり暗紫色になる。

新梢が侵されると、その後に展開する病葉は萎縮することがある。

発病が激しい場合には、病葉の黄化が進み落葉も早まる。


                  「アジサイのうどん粉病」


梅雨期頃に発生が激しいが、盛夏には一旦消滅するが秋に再び発生する。

秋には白色菌叢上に点々と子のう殻(微小黒粒状物)を形成することがある。

病原菌は子のう菌類に属するうどんこ菌(糸状菌)の一種であるが、完全世代が確認されていない。

病原菌の他に、野生のアジサイ属植物に寄生するうどん粉病菌3種が記録されている。

病原菌の越冬及び第一次伝染源は未詳であるが、生育期においては病葉身上に生じた分生子が飛散して、伝播を繰り返すことに違いはない。


この病気は、施設栽培の鉢物では問題となることが多いが、露地では白粉状の菌叢が目立っても、薬剤防除を必要とする程激しく蔓延しない。


防除法

毎年発生して薬剤防除を必要とする場合は、新葉展開期から秋にかけてキノキサリン系剤、チオファネートメチル剤、トリホリン剤、フェナリモン剤、ミルディオマイシン剤などを用い、月に1〜2回散布して蔓延防止を図る。

また、秋には病葉落葉を集めて処分する事が伝染源の低減に有効となる。









2021/07/01

サルスベリのうどん粉病 No,513

 サルスベリのうどん粉病

新梢や葉、つぼみに小麦粉をまぶしたような白いカビが生え、被害が進むと全体がカビで被われる。

カビが原因で発生する主要病害で、サルスベリ以外の植物にも多く発生します。

一般に夏の高温期を除き、初夏や秋口に雨が少なく雨天が続く、比較的冷涼でしかも乾燥すると発生します。

肥料のやり過ぎで枝葉が茂り過ぎたり、密植して日当たりや風通しが悪いと発生が促されます。

発病した葉の上にできる胞子が風で飛散し、周囲に伝染するのが一般的です。






一度発生すると連年発生が続き、多発生が続くと生育が阻害されて、次第に衰弱し、貧弱な樹となります。

病原菌は病葉上に形成される子のう殻や、枝上の芽の組織内に潜伏した菌糸の状態で越冬して、翌春の第一次伝染源となり、新葉展開期以降に子のう胞子及び分生子を飛散し、秋期に至るまで二次伝播を繰り返します。


防除法

被害部位や発病した落ち葉は、早めに取り除いて伝染源を断ちます。

密植を避け、枝葉が茂り過ぎる場合はせん定して日当たりや風通しを良くします。

チッ素肥料を一度に与え過ぎると発生しやすいので施肥には注意します。

チッ素肥料

硫酸アンモニア、硝酸アンモニア、尿素
石灰窒素、硝酸ソーダ、硝酸石灰、IBチッ素など

植物が吸収利用するチッ素の形態は、大部分がアンモニア性及び硝酸性である。

そのため、チッ素肥料はアンモニア性か硝酸性、または、土壌中でアンモニア性チッ素に変化しやすい化学形態を持っている。


薬剤による防除

生育初期からマンネブ剤、ジネブ剤、
キノキサリン系剤、チオファネートメチル剤、ベノミル剤、トリホリン剤、ミルディオマイシン剤などを用い、特に発生初期を重点に月に2回程度散布してまん延防止を図る。









2021/06/30

ハナモモ、せん定、縮葉病 No,512

 ハナモモのせん定

ハナモモは樹勢が強く、放任すると枝が張り出して暴れてしまうので、毎年花後すぐにせん定して、大きさを抑えることが大切です。

花芽は今年伸びた新梢の葉腋に7月頃作られます。

せん定は落葉期の2月から3月、花後の6月から7月、晩秋の11月から12月が適期です。

木の内部まで日が当たるように、ふところ枝を間引き、長枝は短く切り戻します。

夏にひこばえや、幹から直接出る胴吹きが出ていたら、付け根から切り取ります。

太枝を切って樹高を切り詰めたい場合は、雨水の染み込みを防ぎ、腐朽菌の侵入から守るために必ず45度程度の斜め切りを行います。

こうする事で傷口を塞ごうとするカルスの形成を早めます。

切り口には殺菌保護剤の「トップジンMペースト」や「カルスメイト」などを塗布します。

古枝には、やがて花も咲かなくなるので、数年に一度、つぼみの出る時期の2月から3月頃に枝元の花芽を残して切り詰め、新しい枝を出されるようにします。





縮葉病の対策

縮葉病(しゅくようびょう)は、杏、梅、桃につきものの病気で、年一回新葉の展開する3月から4月に雨が多く、低温が続くと発生しやすくなります。

被害葉の表面を覆う白いカビが飛散して枝につくと、その表面で更に増殖して越冬します。

越冬中は、枝の組織内に侵入しているわけではないので、「石灰硫黄合剤」や「ビズダイセン水和剤」などを念入りに散布することで予防できます。

薬剤は休眠期の間はいつでも行なえますが、新芽が発生する直前に散布すると感染防止効果が高くなります。

また、散布時期が遅れ、花芽が見え始める頃に散布を行った場合や、開花後の散布は手遅れになり薬害が発生するの注意が必要です。


                            「ハナモモの縮葉病」


病葉は異常に膨れたり縮んだりして奇形を呈する。

病原菌は子のう菌類に属する糸状菌の一種である。


連年発生する樹では、果実や葉が白カビで覆われる前に、それぞれを摘除処分し、いつまでも放置しないことが発生源を減らすために重要です。









2021/06/29

コナラ No,511

 コナラ ブナ科 「小楢」

別名=ハハソ、ホウソ、ナラ

北海道から九州、朝鮮半島などの山地や丘陵地に分布する常緑及び落葉高木で稀に低木。


雑木林の代表的な樹の1つで、かつての日本の山里ではごく普通の木だったが、最近では雑木林そのものが少なくなってしまった。

春の新緑は一日ごとに微妙に色を変え芽吹く。

日当たりの良い山野に生え、樹高は15㍍程になるが、大きいものは25㍍以上に達する。

コナラの(コ)は小さいという意味ですが、類似種のミズナラをオオナラと呼ぶのに対したもので、山地では径が1㍍近いものも見られる。

類似種のミズナラは葉が大きく、葉柄が短く無いように見えるので区別できる。

秋の最後を締めくくるかのように、渋く紅葉しハラハラと散る。

若木のうちは紅葉しますが、成木では紅葉せずに褐色になった葉が、春まで残ることがある。

かつては薪炭材として利用し、里山には豊かな自然が維持されていた。

椎茸栽培のほだ木として使われている。
材質は堅いがミズナラより評価は低い。

かつては葉を集めて堆肥にし、水田の肥料にした。

葉、果実、樹皮を煮出して染色に使う。

東アジアの常緑広葉樹林や北半球の落葉広葉樹林では、コナラ属の樹林が優占種となる。




開花期

雌雄同株で開花は4月から5月、枝先に尾状の雄花が数本、基部に目立たない雌花が数個つきます。


果実

ドングリと呼ばれる長楕円形の堅果で、緑色から秋に褐色に熟して落下する。

堅果がその年の秋に熟すものと、翌年の秋に熟すものがある。

帽子の様に見える部分は殻斗(かくと)と呼び、水平のしま模様を見せることが特徴です。

葉が紅葉する少し前頃に、殻斗から離れてドングリだけが落下する。


生育環境

適度に保水性があり、また水はけが良ければ土質は選びません。

日当たりは半日陰ぐらいまでであれば良好に育ちます。

自然樹形が基本で、雑木林風の植え込みや、和風の石組み、灯籠などと組み合わせた単木での利用に適します。

コナラの効能

樹皮、葉ともに下痢止めや解毒作用、止血、打ち身などに効果があり、漢方処方では樹皮が配合利用されている。


主なコナラの天然記念物


長野県松本市波田4751
県指定天然記念物
波多神社のコナラ


山梨市三富川浦1818-252
市指定天然記念物
広瀬のコナラ


大分県竹田市久住町久住
市指定天然記念物
平木のコナラ

広島県東城町小奴可
県指定天然記念物
板井谷のコナラ

山梨県笛吹市境川町小山1027
市指定天然記念物
小山若宮神社のコナラ





2021/06/28

巨人、人魚、ゴリラ岩、五島の不思議発見 No,510

 No,510に因んで五島の話


考古学で研究が禁じられている分野がある。


それはかつて、北アメリカ大陸で繁栄した巨人の研究である。

コロンブスによるアメリカ大陸発見以降、ヨーロッパ人によってアメリカ大陸が探索、開拓されてきたが、その過程でいくつかのピラミッド型の墓が発見されている。


その墓の中には巨人の骸骨が安置されていた。

巨人の骸骨の大きさは2.5〜4㍍のものまであったと言う。

発見者の中には、細部まで分析を行いレポートを発表する者もいたが、どう言う訳か黙殺されたという。

旧約聖書に登場する巨人族「ネフィリム」をはじめ、世界各地で「巨人伝説」が言い伝えられているが、この巨人の研究に取り組む者は少ない。


巨人研究の重要人物であるマイケル·デリンガー氏は、旧約聖書の「ネフィリム」の記述から、巨人に比べて我々人間は「バッタ」のような存在であることを指摘し、少なくとも4万年前までアフリカに巨人族が栄える超古代文明が、存在していたことを主張している。

なぜ巨人族が消えたのか、明らかにしようとしないのはおそらく、現人類の仕業に違いないかも知れない。





シマキットンの足跡

五島列島、今里の海岸には巨大な足跡が岩場に刻まれている。

島吉ドンと言う人もいるが、「シマキットン」と僕等は呼んでいた。





足跡は今里から小浜(おばま)へと向かう途中の海岸の岩場(赤丸印)にあり、潮が満ちると海水で見えにくくなる。

子どもの頃は、今里から小浜へ向かう為の道は無かった。

幼稚園の頃、夜中に今里から小浜まで山越えをした記憶が残っている。

その頃、左親指の爪を剥いでいた僕は包帯をしていた。

それ以来親指の爪が割れ爪になってしまった。

冬の寒い夜だった事をかすかに覚えている。

小浜の親戚の家に行く為に山越えしたが、理由など分かるはずもなかった。


足跡のある場所には子どもの頃、魚釣りでよく訪れていた。

波打ち際にその足跡はあり、長い年月を経て、少しずつ小さくなっている。

1970年頃には、まだ大きかったと思うが、その昔は畳2枚分の大きさがあったと言う。

足指の数が9本もあった事を覚えている。


シマキットンは今里から近い三王山(さんのうざん)で生まれたとされ、今里の海岸以外にも足跡が遺されていて、祝言島でも見たと兄たちは言っていた。

小漁師もやっていた親父と島に行った時に見たと言う。



     「シマキットンの足跡、対岸は跡次」


三王山の頂上から数百メートル下の所に大きな岩穴がある。

不気味で近づけない、そんな場所を横目に通り過ぎたものだった。

子どもの頃、三王山の周辺をはげ山にしたのは親父である。

山の木々を切り倒し、薪を売ったり、炭焼きをしていた。

小学2年の頃には、山仕事に駆り出されて、しょいこで物を運んだりしていた。

それが原因で背が伸びなかったと思う。貧しさのあまり栄養不足だった事もあるだろう。

もう一つは、小学校に入学したばかりの頃、一つ上の兄に尾てい骨を折られたからだろう。

それ以来、尾てい骨は折れたまま癒着して突起している。

その事で、器官に不具合が生じたまま生きてきた事は言うまでもない!




三王山周辺や佐野原の山々をハゲ山にした親父は、山々の至る所に炭焼き窯も造っている。

もしもその跡が発見されたなら、それは親父が作った炭焼き窯の跡です。

木々を切り倒し続けた親父の償いを僕は今、樹木に携わる形で行っているのかもしれない。

10歳頃までは、ランプ生活でガスなし、水道なし、テレビもないほぼ自給自足の生活だった。

おやつは自然の恵みによるもので、口の周りが真っ黒になるくらい山葡萄を食べたものです。

キウイフルーツに似た、無毛のコッポもよく食べた。

食べ過ぎると便秘になるが、美味だった。

コッポの正式名は「サルナシ」と言う。


                                   「サルナシ」


山仕事を手伝う事が多い中で、ゴリラの顔をした大きな岩があった。

「ゴリラ岩」と呼んでいたが、このゴリラ岩にロープでぶら下がった青年がいた。

その人は、家族ぐるみのお付き合いをしていた、山田さんちのお兄さん。

ゴリラの顔をした岩には、目も鼻も口もちゃんとあったと言う。

顔の長さは20㍍はあると言っていた事を覚えている。

ゴリラ岩の谷底の手前まで、木を切って行った時、ゴリラ岩を真正面から見てびっくりしたものです。

しかし、このゴリラ岩を知るものは少ない。

1990年、帰省の折に8ミリで撮ったテープには、ゴリラ岩が記録されている。





記憶によれば、赤丸印の辺りにゴリラ岩が見えていたと思う。

佐野原川上流へ向かった所、拓けた所に山田さんちがあった。

ゴリラ岩の山の方向には、大瀬良部落がある。

子どもの頃、夜中に道なき道を山越えして大瀬良に行った事があったが、怖かったという記憶は全く無い。





佐野原川に架かる橋、この橋は子どもの頃からの橋で、壊されないで残っているようだ。

橋を渡った左側には、大きな養鶏場があった。





4歳の頃、佐野原川に流されて助けてくれた白岩久四郎さんちがあった場所。

10歳の頃、白岩さんちは大型台風により破壊され、柱4本だけが残っている様子を、子どもたちだけで遠くから眺めていた。


その後、白岩さんちは車道側にお家を建てた。



                    「現在の白岩さんち」

滝壺の直前で救いあげられ、気を失っていた僕が、目を覚ましたのは数時間後だったと言う。

布団に寝かされていた僕を心配して家族がみていた。

過疎地で運命的に救われたのだった。

その時の記憶は今でも少し残っている。


              

  昔は橋はなかった。
この橋の真下に石渡りがあって、川の真ん中で、白岩さんちのお姉さんが足を滑らせ、おんぶしていた僕を落としてしまった。

その後数百メートル流された。

前日の雨で増水していたのです。




錆びついた廃屋は子どもの頃、農協のカイコの糸を紡ぐ工場だった。

周辺道路沿いにはカイコ畑が一面にあった。

当時、母ちゃんと白岩のお母さんが働いていて、よく子どもらで遊び回っていた懐かしい場所である。





この標識の真裏あたりに実は、半畳程の石積みで出来たお墓がある。

埋もれて見えないが、現在もあるはずです。

この墓は、明治時代の頃、行き倒れの娘さんがこの場所で息絶えてしまった、その若い娘さんのお墓である。

当時桂山に住んでいた、牛引きのベーベー爺さんが(当時は青年だった)見知らぬ娘さんを埋葬したと言う。

その経緯を知る者はもういないだろう。

小学生の頃には、お爺さんをよく見かけたが、口を聞けないような状態になっていた。

その頃もまだ、牛を引いていた事を覚えている。

祝言島(しゅうげんじま)

検索によればしゅうげんじまとなっているが、「しゅうげじま」と呼んでいた。

祝言島には人魚伝説がある。
この事を知る者も余りいない。




◆世界には人魚と思われる骸骨が保管されている場所が存在する。


人魚の背中にはトコブシがくっついていたと、写真を撮った人が言っていた。

中学生の頃に、人魚が泳ぐ姿の写真を見せてもらった事があった。

ほとんど信じられないと思う気持ちの方が大きかった事を覚えている。

戦時中、この島は射撃場にされていという。

岩肌には銃弾の跡が無数にあると聞かされた。

島の湾内には飛行物体が墜落して、沈んでいると聞いたこともあった。

五島列島福江島
沖には、沈められた軍艦が海底に眠っている。

第二次大戦後、1946年4月、米軍により海没処分された旧日本海軍の潜水艦が何キロにも渡り、沈められている。

長い年月の中で魚礁となっている。










2021/06/27

キハダの木 No,509

 キハダ ミカン科「黄檗」

別名=オウバク 「黄檗、黄柏」

北海道から九州、朝鮮半島などの山地に自生する落葉高木で、樹高は20㍍を超えるものもある。

幹の内皮が鮮やかな黄色なのでこの名がある。

古くからこの色を利用して、青味のある黄色用の染料に利用したと言う記録がある。

また、別名のオウバクはこの内皮の部分をいい、苦味健胃剤として実用的な利用があるが、顔をしかめるほど苦い。




花と果実

雌雄異株で、5〜6月頃新しく伸びた枝先に長さ30cm前後の円錐花序を出し、あまり目立たない黄緑色の小さな花が多数開きます。

果実は径1cm程の球形で秋に黒く熟します。

落葉した後も果実は萎びたまま枝に残る。

葉の特徴

葉は対生し、先端が尖る楕円形で、長さ6cm前後。

縁は全縁で裏面に白味を帯びる。

生育環境、植栽利用

庭木としての利用はほとんどありませんが、植物園などでは稀に植えられています。

山野では日当たりが良い斜面地などで見ることがある。

排水が良く、やや湿り気のある土壌が適します。

自然な樹形が基本で、からみ枝や長過ぎる枝を切り戻す程度に仕立てる。


キハダの効能(薬用樹)

奈良では、吉野地方発祥の胃腸薬陀羅尼助丸(だらにすけがん)に配合されていることで、長年親しまれてきた。

樹皮を煎じ洗眼すると目の充血、ただれ目、結膜炎、その他の眼病に効果がある。

キハダの樹皮から取れる黄檗(おうばく)は、貴重な薬用資源であり、江戸時代には無断で伐採することを禁じていた。

現代でも貴重な樹であることに変わりはない。

植えてから薬用にするためには20年程度の年月が必要で、若木はよく鹿に狙われて食べられてしまうため、注意を要する。

キハダは東洋医学の最古の生薬学書「神農本草経」(しんのうほんぞうきょう)に収載されているが、日本ではすでに縄文時代から使用されてきた。

縄文時代の遺跡からも、樹皮が薬用に保存されていたと思われる状態で発掘されている。