緑のお医者の徒然植物記

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2024/09/10

樹木の根とその働き No,711

 樹木の生理

樹木の地下部分全体を根系(こんけい)といいます。

主幹の真下から直下に伸びている根を直根=主根、横方向に伸びている根を側根といいます。

❉直根(ちょっこん)と言う表現は主に造園学で表しますが、樹医学的には主根(しゅこん)と表現することが多い。


横に伸びた側根(そくこん)の末端に生じる細い根を、細根(さいこん)といいます。

細根には毛のような根毛(こんもう)があります。

根毛は水分や養分を土中から取り入れ、導管に送る働きをしています。

導管は師管と交互に並んでいます。


      「根の構造」


根が地中深くに発達する性質のものを深根性(しんこんせい)といい、比較的浅い場所に発達する性質のものを浅根性(せんこんせい)といい区別します。

この性質は、樹種によって異なりますが、同じ樹種でも土質や地下水の状況などによって大きく変化します。


樹木の側根は、あまり地中深くには分布しないのが普通です。

側根の大部分は深さ1㍍以内の所に根が発達しています。

特に人によって踏圧されない林野地等では、根の50%以上が深さ30㌢までの地中に分布していることが多いと言われています。

しかし、種子から育ったまま1度も移植をしていない樹木では、主根の発達は著しい反面、側根は発達しない傾向にあります。


針葉樹は一般に側根に比べて、主根の発達が著しいとされ、広葉樹はこの逆の性質が強いと言えます。


しかし、一旦移植を行って太い根を切ると、その後針葉樹は広葉樹に比べて、再び太い根が伸びにくいと言う性質があります。

高さ50㍍の樹木は、主根の深さが2.5㍍位ですが、側根の拡がりは樹の高さと同じくらい広がっていると言われています。

概ね、枝先の真下まで側根は伸びていると言われています。

手入れと管理された造園樹木は、一般に何回も移植が繰り返されているため、その都度主根をはじめとした太い根が切り取られています。

造園樹木以外の大木は、株元周りの太い根を切って細根を出してから移植を行うことがあります。

それは、細根が株元に少ない株は、細根を出すための準備が必用だからです。

そのため、移植がすぐ行えるわけではありません。

細根が無い状態でそのまま移植しても、樹木の成長が妨げられる事にもなります。


✫双子葉植物と単子葉植物

主根と側根がある根は双子葉植物に見られます。

双子葉(そうしよう)植物は子葉が2枚または、それ以上ある植物をいいます。

根の付け根から、同じくらいの太さの細い根がたくさん生えていて、主根と側根の区別がつかないものをひげ根といいます。

これは単子葉(たんしよう)植物に見られる根の造りです。

単子葉植物は子葉が1枚の植物をいいます。









2024/09/09

日本の造園史(9) No,710

 戦後の造園

1945年〜

戦後の復興期から石油危機(オイルショック)にかけては、国民総生産が飛躍的に伸び、これまでになく庶民の生活は豊かになりました。

反面、公害や自然破壊などの社会問題がクローズアップされるようになりました。

❉オイルショックは、1970年代に2度発生し、石油を産出する国のサウジアラビアやイランなどが、石油価格の大幅な引き上げや石油生産の削減、石油の輸出制限などを行う事によって生じた、世界的な経済的混乱の事です。


一方庭園は、以前の時代よりも更に小規模な、個人庭園が多く造られるようになりました。




特に都心部では、住宅の敷地が狭くなって広い庭園を造る事はほとんど不可能な状態でした。

こうした新しい造園的空間の特徴の一つに、樹木の植栽等を通じて自然の持っている潤いや安らぎの場を、増やそうとする目的が挙げられます。




自然が少なくなった都心部のビルの谷間や、造成された新興住宅地、集合住宅の造園、広場や公園、運動施設などが造園の新しい対象として注目されるようになりました。








2024/09/08

日本の造園史(8) No,709

 明治、大正、昭和初期の庭園

大政奉還1867年〜終戦1945年

明治になると鎖国令が解かれ、外国の文明が一挙に入ってくると同時に、世の中の仕組みがすっかり変わってしまいました。

造園史の上では、西洋文明と共に西洋庭園の様式が渡来しました。

しかし、この時代には本格的な洋風庭園として造られたものは少なく、わずかに新宿御苑、三井クラブ、三菱松濤園、古河庭園などが、この時代に造られた洋風庭園(整形式庭園)の代表的なものとして挙げられます。

一方、伝統的和風庭園の技術は、当時外国貿易で莫大な財産を得た商人や、政府高官の庭に受け継いで伝えられていました。


そして貿易会社等の中には、外国の取引先の接待のために、彼らの喜ぶ和風庭園を造ることも少なくありませんでした。

このようにして造られた庭園には、横浜の三渓園、東京の深川親睦園(現清澄庭園)などがあります。

      「清澄庭園」

山縣有朋(やまがたありとも)は第3代内閣総理大臣で、個人として特に庭に精通し、庭を愛した著名人です。

軍人でもあり、政治家でもありましたが、庭園築造の構造にも巧みで、庭師の小川治兵衛(おがわじへい)を起用し、京都の無鄰菴(むりんあん)、東京の椿山荘(ちんざんそう)、小田原の古稀庵など、柔らかい感じの自然風の流れのある庭園を造りました。

小川治兵衛は、明治から昭和にかけて活躍した作庭家で、明治から大正期の名庭園を数多く手掛けた、近代を代表する名庭師です。

庭園に芝生を初めて用いた植木職人7代目、植治(うえじ)とも呼ばれ、明治の総理大臣であった山縣有朋によって、その才能を引き出されたと言われています。

西洋庭園は、整形式庭園と言う形では、この時代に必ずしも大きな影響を残したとは言えません。

しかし、実用の庭と言う新しい形式を住宅庭園に持ち込んだ意義は、大きいと言えるだろう。

これまでの日本の庭園は、観賞を目的としたものが多くありましたが、西洋庭園の様式が紹介されてからは、日本でも庭でくつろいだり、食事を楽しんだりするためのテラスや、芝生地が設けられるようになりました。

また、草花を観賞する花壇なども作られるようになり、それまでに比べ色彩が豊かで明るい庭園が多く出現し、庭園の様式に多様化が進みました。

更に、個人庭園が小規模化し、一般化の傾向を呈するようになったのもこの時代です。

この傾向は戦後になって一層著しくなります。

この時代以前では、一部の権力者か富豪の象徴とされた庭園ですが、段々中流階級と言われる人々の間でも、造られるようになってきたのは大きな特徴と言えます。

大正に入ると、日本の近代造園史上特筆すべき事業が二つ行われました。

一つは、明治神宮内外苑の建設で、その規模や修景計画、施工技術など、それに近代造園学の修得者が造園に関与したという点で、造園史上に大きな足跡を残しました。


もう一つは、震災復興計画事業です。

大正12年(1923年)の関東大震災は、東京、横浜に大きな被害をもたらしました。

そのため、公園の必要性と価値が強く認識され、錦糸公園、隅田公園、浜町公園と52の小公園が東京に造られました。

山下公園、野毛山公園、神奈川公園の3公園が横浜に新設されました。


❉公園史の上では、明治6年1月15日に太政官政府から府県に公布された、太政官布達(だいじょうかんふたつ)第16号によって、東京府は太政官政府に対して、浅草(金竜山浅草寺)、上野(東叡山寛永寺)、芝(三緑山増上寺)、深川(富岡八幡宮)、飛鳥山の5箇所を上申して、東京に五つの公園が生まれました。

これが日本における公園の始まりであったと言われています。

元々、江戸時代から庶民の遊興地であったのがこの5箇所です。

現在の公園と言える場所は、上野公園と飛鳥山公園の2箇所のみで後は神社仏閣の敷地です。


また、この公布は国の所管に関わる土地のうち、景勝地、名所、史跡等を公園として残すというものです。

その後、続々と多くの名所や城跡などの公園化される事になりました。

しかし、それは以前から公園としての役割を負っていた場所がほとんどで、新規に建設された公園は多くありませんでした。

また日本で、整形式の洋風公園が初めて造られたのが東京の日比谷公園です。









2024/09/07

日本の造園史(7) No,708

 江戸時代の庭園

江戸幕府の成立1603年〜大政奉還1867年

江戸時代は、徳川幕府によって約260年にもわたって「太平の世の中」が続きました。

書物によっては約300年と記載されているものもある。

「太平の世」とは、戦争がなく世の中が穏やかに治まっている状態の事で、これは、徳川家康をはじめとする歴代将軍が文化人として、文化創造に貢献したことが理由のひとつだとされています。

この時代には各地の大名が、その国元や江戸屋敷に多くの庭園を造りましたが、これらは「大名庭」と呼び、その多くは回遊式庭園の形式を採っています。

回遊式庭園とは、園内の観賞点や庵(いおり=小さな家)が園路に沿って配置されていて、大きな園池等を園路が巡っているような庭園のことを言います。


      「回遊式庭園」


この回遊式庭園は、それまでの造園技術、特に茶庭や枯山水などの技術が、一層大規模になった集大成です。

その最初にして最も美しい庭と高く評価されているのが、後水尾(ごみずのお)天皇又は、その皇子方の指導によって造られたと言われている、京都西郊に現存する「桂離宮」です。

桂離宮では、伝統的な池泉(ちせん)庭園の中にいくつかの茶室を配置し、それらを結ぶ園路等に茶庭の技法を含め、いろいろな造園技法が巧みに取り入れられています。

✫池泉庭園は池泉や水景物のある庭のこと

現在残っている地方の主な大名庭園は
水戸の偕楽園、金沢の兼六園
岡山の後楽園、彦根の楽々園
広島の縮景園、熊本の水前寺成趣園
鹿児島の磯庭園


江戸屋敷の庭園として造られたものは
将軍家の浜御殿(浜離宮)
小田原城主の大久保侯の楽寿園(芝離宮)
紀州侯の赤坂西園(赤坂離宮)
水戸侯の小石川後楽園
柳沢侯の六義園(りくぎえん)
尾張藩主徳川侯の戸山荘(廃絶)
平戸藩主松浦伯の蓬楽園(廃絶)

✫侯(こう)とは大名、領主のこと

江戸時代初期を代表する作庭家として、「小堀遠州」が挙げられます。

遠州は、当時の役人として多くの作庭や建築に携わっていますが、茶室に関してもひとつの新しい流れを作り出しました。

桃山時代末期の「侘=わび」に徹した茶室や茶庭に対して、より明るく侘の中に華やかさも併せ持った、独特の茶室や茶庭を遠州は作り出しました。

遠州の代表作品は、京都大徳寺孤篷庵(こほうあん)等に残されています。


       「孤篷庵」


小堀遠州は安土桃山時代から江戸時代初期に活躍した大名茶人で作庭家、建築家として知られている。

江戸時代中期から後期にかけては、庶民の文化が花開いた時期です。

「築山庭造伝=つきやまていぞうでん」をはじめとし、多くの造園図書が出版され、これを基に庶民の庭が多数造られました。

この図書は、造園に関する知識を広く普及するという意味では重要な役割を果たしましたが、造園の設計を固定化し、形式化するという悪い結果をもたらした事は否定できません。









2024/09/06

日本の造園史(6) No,707

 安土桃山時代の庭園

室町幕府の崩壊1573年〜江戸幕府成立1603年

安土桃山時代は戦国の世から、織田信長や豊臣秀吉が台頭して天下を統一した時代です。

有力な大名たちは、その富と力を豪華な建築や庭園、ふすま絵、彫刻、調度品等で自慢していましたが、これらに代表される雄大さやはかなさが、安土桃山時代文化の特徴と言えるでしょう。

この時代を代表する城郭内や寺院の庭園は、設計の様式としては自然風ではあるが、かなり写意的で材料に巨石や色石等を多用し、派手な演出が加わり、豪華なものになりました。

今でも見られるものとしては、京都の醍醐寺三宝院や二条城二の丸庭園、西本願寺大書院庭園などが挙げられます。


    「西本願寺大書院庭園」

西本願寺大書院庭園は書院の東側にある枯山水の中庭で、「虎渓(こけい)の庭」の名で知られています。

✫大書院の読み方=おおじょいん又はおおしょいん










2024/09/05

日本の造園史(5) No,706

 室町時代の庭園

建武の新政1334年〜室町幕府の崩壊1573年

室町時代は武士の文化が繁栄し、貿易で栄えた堺の商人たち等との間で、庶民の文化が芽生える時代です。

そして戦乱に明け暮れた時代を通して、人々の心は精神的な安息をもたらす、美術や芸術に強く惹きつけられていきました。


このような時代の中、庭園では鎌倉時代に南宋画から影響を受けて生まれた、象徴手法を更に発展させました。

石、砂、苔等だけで山や海、川などの大自然を象徴した「枯山水」が禅寺の小庭園に造られるようになりました。

これらの庭園は、観賞の為のものであったが、同時に禅宗では自然界の全ては浄土の現れだと考えることから、そこに現れた御仏に礼拝するという修行の場でもありました。

このような庭園としては、京都の大徳寺大仙院、龍安寺方丈の庭などが挙げられます。

   「大徳寺大仙院の枯山水」

鎌倉時代以前の庭園として現存し残っているものは、そのほとんどが寺院や宮殿の庭です。

室町時代になると、地方武士の庭園遺構がそのまま残っているものがあります。

それは福岡県の英彦山庭園

三重県の北畠氏館跡庭園(きたばたけしやかたあとていえん)

滋賀県の朽木氏の旧秀隣寺庭園

福井県の朝倉氏庭園

雪舟(せっしゅう=水墨画家、禅僧)の作庭と伝えられている山口県の常栄寺、島根県の万福寺などの庭園が代表的なものとされています。

     「旧秀隣寺庭園」

また、この時代後半には茶道が起こり、茶庭(ちゃにわ)も造られるようになりました。

室町時代になるとそれまでの石立僧に代わって、山水河原者(せんずいかわらもの)と呼ばれる人たちが造園技術者として、新たに勢力を増してくる。

造園労働者として石立僧の下で働いていたの者の中から、優れた造園的知識や技術を身につけた技術者が出現したことで、造園の発達に大きな役割を果たすことになります。

河原者は平安期以降に河原に住むことを強制された肉体労働や染色、雑芸能などを生業にしていました。

もともとは税金を取られないため、河原に住み着いた人々で、その中には造園などの技術者も多く、後に「山水河原者」と呼ばれる庭造りに活躍する者たちとなっていったのです。

河原者は代表的な被差別民の一種で、そもそもよい言葉ではありません。

河原人とも呼ばれ、乞食(こじき)や非人など、歌舞伎役者を卑しんで呼んだ言葉でかわらこじきと呼ばれたりした。

非人(ひにん)とは、人間ではないもの、人間の数に入れられない者と言う意味です。