緑のお医者の徒然植物記

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2024/09/05

日本の造園史(5) No,706

 室町時代の庭園

建武の新政1334年〜室町幕府の崩壊1573年

室町時代は武士の文化が繁栄し、貿易で栄えた堺の商人たち等との間で、庶民の文化が芽生える時代です。

そして戦乱に明け暮れた時代を通して、人々の心は精神的な安息をもたらす、美術や芸術に強く惹きつけられていきました。


このような時代の中、庭園では鎌倉時代に南宋画から影響を受けて生まれた、象徴手法を更に発展させました。

石、砂、苔等だけで山や海、川などの大自然を象徴した「枯山水」が禅寺の小庭園に造られるようになりました。

これらの庭園は、観賞の為のものであったが、同時に禅宗では自然界の全ては浄土の現れだと考えることから、そこに現れた御仏に礼拝するという修行の場でもありました。

このような庭園としては、京都の大徳寺大仙院、龍安寺方丈の庭などが挙げられます。

   「大徳寺大仙院の枯山水」

鎌倉時代以前の庭園として現存し残っているものは、そのほとんどが寺院や宮殿の庭です。

室町時代になると、地方武士の庭園遺構がそのまま残っているものがあります。

それは福岡県の英彦山庭園

三重県の北畠氏館跡庭園(きたばたけしやかたあとていえん)

滋賀県の朽木氏の旧秀隣寺庭園

福井県の朝倉氏庭園

雪舟(せっしゅう=水墨画家、禅僧)の作庭と伝えられている山口県の常栄寺、島根県の万福寺などの庭園が代表的なものとされています。

     「旧秀隣寺庭園」

また、この時代後半には茶道が起こり、茶庭(ちゃにわ)も造られるようになりました。

室町時代になるとそれまでの石立僧に代わって、山水河原者(せんずいかわらもの)と呼ばれる人たちが造園技術者として、新たに勢力を増してくる。

造園労働者として石立僧の下で働いていたの者の中から、優れた造園的知識や技術を身につけた技術者が出現したことで、造園の発達に大きな役割を果たすことになります。

河原者は平安期以降に河原に住むことを強制された肉体労働や染色、雑芸能などを生業にしていました。

もともとは税金を取られないため、河原に住み着いた人々で、その中には造園などの技術者も多く、後に「山水河原者」と呼ばれる庭造りに活躍する者たちとなっていったのです。

河原者は代表的な被差別民の一種で、そもそもよい言葉ではありません。

河原人とも呼ばれ、乞食(こじき)や非人など、歌舞伎役者を卑しんで呼んだ言葉でかわらこじきと呼ばれたりした。

非人(ひにん)とは、人間ではないもの、人間の数に入れられない者と言う意味です。