緑のお医者の徒然植物記

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2025/11/10

どうしてこうなったの車の税金 No.792

 80年以上続く車の税金の歴史

1937年(昭和12年)に課税が始まった揮発油税

この年は、日中戦争(支那事変)が勃発した年で、日本と中国が全面的な戦争状態に突入しました。

日本政府は9月2日に「支那事変」と呼称する事を発表しました。

車の税金の導入は、実は戦費捻出のためだったと言う目的があったのではないだろうか。


1950年(昭和25年)に創設された「自動車税」が車にかかる税金の始まりです。

戦時中に、一旦廃止になっていた揮発油税は1949年に復活しています。

1950年には朝鮮戦争が勃発した年で、北朝鮮が韓国に侵攻して始まった。

1953年に休戦協定が調印され、戦闘は終結したが平和条約は締結されていないため、国際法上は現在も戦争状態が継続しているとされています。

戦争も税金も始めたらやめることができないと言うものだろう。

それが騙し討ちに始まったものでも止めようとしないのです。

増税有りきなのです。

1954年(昭和29年)には道路整備に限定して使う道路特定財源となった。

道路事業費の抑制等によって2000年代は、自動車関連諸税の税収が事業費を上回るようになりました。

2009年から道路特定財源の税は暫定税率の特例措置が維持され、使途を道路に限定しない一般財源となっています。


なぜ9種類も税金があるのか!

道路整備の財源確保が必要になったことが理由だとして、軽油引取税(1956年)や自動車取得税(1968年)、自動車重量税(1971年)と雪だるま式に新税が創設され、本則税率に上乗せした暫定税率が課せられ、9種類もの税金となった。


車の税金の多くは、使途を道路整備に限るという名目で始まったが、それが反故にされて一般財源化された時点で課税する根拠がなくなったはずである。

本来ならここで廃止や見直しをするべきであったはずです。

やはりこれは課税を始めた当初の約束と違うのではないかと、、、

一般財源化されたことで、自動車ユーザーは納めた税金がどのように使われているのか、分かりにくくなっていますが、道路への財政支出は1年間で約5兆円ともいわれています。

JAFで毎年実施しているアンケート調査では、自動車の税金を負担に感じている自動車ユーザーは98.9%にものぼるとされ、そのような中で更に走行距離やモーター等の出力に応じた課税と言った、新たな税の議論がなされています。






これ以上、自動車ユーザーの負担が増えることは到底受け入れることができないとしています。






旧車の税金及び重量税が高くなる主な理由としているのが、環境負荷の低減と消費者に環境性能の高い新しい車への乗り換えを促すためとされています。

早い話、物を大切にしないということです。

新車購入を促すため、旧車を維持されては困るからと言うことだ。

環境負荷と言うが車を走らせなくても課税されることから、課税目的に当てはまらない旧車もある。


買い物や通院などの足として日常生活を支える車は、生活に欠かせない存在にもかかわらず、不合理な税体系が長く続いています。

自動車取得税、自動車重量税、自動車税、軽自動車税、揮発油税、地方揮発油税、軽油引取税、消費税(車体課税分)、消費税(燃料課税分)

車の税金は8兆円にもなります。


      「ガソリンに含まれる税金」

合計9種類もの税金、その総額は国や地方の租税総収入(約100兆円)の約8%を占めています。

これらの税金は、道路の受益者負担と言う考えから自動車ユーザーだけに課せられ、更には定められた税率に上乗せされているものもある。

一般財源化されたことで道路整備以外にも使われるようになった今でも、自動車ユーザーの税負担は全く見直されていない。










ムベ茶を作る No.791

ムベ

アケビ科ムベ属


郁子、野木瓜(やもっか)

別名=トキワアケビ

果実は熟してもアケビのように口を開かないのが特徴です。

常緑つる性植物で、つるは他の木に巻き付き成長する。

不老長寿の実とも呼ばれるムベの果実は、秋(10月〜11月頃)に熟す艶のある楕円形をしています。



  「ムベの果実」




硬い果皮の内側にはゼリー状の白っぽい果肉と黒い無数の種が詰まっている。


食べる時は、果皮をナイフ等で半分にカットして、スプーンなどで果肉をすくって食べます。

小さな黒い種は吐き出すのが一般的ですが、飲み込んでも問題ありません。


   「ムベの果肉」


天智天皇(西暦626〜672年)が、長寿の老夫婦から果実を勧められ「むべなるかな」(もっともである)と感心したことが名前の由来という伝説がある。


ムベ茶

ムベ茶は一般的にムベの葉や茎(つる)を乾燥させて作ります。



野木瓜(やもっか)と言う漢方薬では葉、茎、根が使われ、利尿剤や強心剤として利用される。

煮出しの例として、5分〜10分煮出します。

煮出しする時間が長いと、苦味や渋みが出ることがあります。

また、一日の量を5グラムとして水200㏄で煎じて服用すると言う例もあります。


    「ムベ茶」

ムベ茶の期待される効能


利尿作用
体内の余分な水分排出を促す働きがあり、むくみや肝臓病、尿道炎、膀胱炎などの改善目的で利用されてきました。


抗酸化作用
ムベには抗酸化作用が期待できる成分が含まれており、老化防止や生活習慣病の予防に寄与する可能性があります。


強心作用
心臓の働きを助ける効果も報告されています。

生活習慣病の予防
血中コレステロール値を改善する効果が期待され、生活習慣病のリスクを低減する可能性があります。


これらの効能は、ムベに含まれる配糖体(植物成分)やサポニンといった成分によるものと考えられています。

配糖体=スタントニン、ムベニン、スタントサイドA.B.Fなど

なお、病気の治療目的で利用する場合は必ず、医師や専門家に相談する必要があります。








2025/11/03

お米が消える未来 No.790

 稲作農業の始まり


日本の稲作は、紀元前10世紀頃に九州北部で始まった弥生時代の「水田稲作」が基となっている。

稲作技術は中国、朝鮮半島から伝来したもので、狩猟採集の生活から定住へと生活様式を大きく変え、村落共同体の形成を促しました。

その後、紀元前7世紀頃には近畿地方、紀元前4世紀頃には本州北端まで広まりました。


多品種の稲が多くの人々を支えてきたことで、東南アジアや中国などの文明が栄えました。

米は数千年にわたり日本の人々を支えてきた主要な食料であり、日本の人口増加を可能にもしました。

食糧難の歴史

第二次世界大戦中及び戦後(1942〜1949)の頃、戦争の影響で食糧生産が激減し食糧難に陥った日本。

日本には幾度となくそんな時代がある。


食糧難と言う状況は戦後も続き、1949年頃から徐々に解消に向かったとされています。


米不足での代用品はサツマイモやジャガイモ、トウモロコシなどが使われ、ヤミ米の価格は公定価格の49倍に跳ね上がったと言われています。

ヤミ米価格は、昭和21年頃で白米1升(約1.5kg=10合)で最高価格が70円で、現代価格にすると13520〜23660円程になります。


現代では気候変動も影響し、米の生産量も減少しています。



夏の気温が米の生育適温を超え、デンプンがうまく蓄積されず、米粒が白く濁る「白未熟粒」が全国で発生しています。


また、カメムシによる被害も深刻で、米粒がカメムシに吸汁されて実らない。

更に、米粒に黒い痕が残るなど商品としての価値も下がっています。



政府は毎年、主食用米の需要と供給の見通しを発表しますが、米の需要減を理由にこれまで生産量を抑制してきました。


主食用米は年に約10万トンのペースで減産し、コロナ禍で外食需要が落ちると更に減産しました。

政府は今年8月、生産不足を認めましたが、生産者の判断による需要に応じた生産と言う、これまでの方針を変えていません。


需要以上に米を作って価格が下がっても「生産者の判断の結果」と言うわけです。


米が足りないのは政府がぎりぎりの需給計画で進めてきた結果であり、自然環境下での生産米が予想通りに作れるはずがありません。

工業製品のようには作れないものを、市場任せにする政府の姿勢が問われるべきなのです。


農政によって生産農家を減らし、消費者が安心して米を食べられない状況を政府は作ったのです。

今、増産しろと言われてもお米ができない程に農地は荒れ果て、生産農家の数も激減し続けています。


そんな荒れ地ではすぐにお米を作る事はできません。

危険な宣言

一方で軍事費増拡大を宣言した日本の首相は、更に国内自給率を下げると言う減産を表明しています。

こんな方針を出すことじたいが、狂っているとしか思えません。

戦時中、多くの日本兵は遠く離れた戦地で戦わずして餓死、栄養失調による病気感染などで亡くなりました。

食糧の補給がなされず、食物がなくなり戦うよりも深刻な状況だったのです。

南方諸島のジャングルの中でサツマイモを栽培した軍隊もあったのです。

大きく育ったサツマイモだったが、とても不味いものだったとの帰還兵の話があります。


再び戦争が起きるなら、食糧難が自国内で起きる可能性は大きい。

今住んでる場所で、餓死すると言う事が起きてしまうかも知れません。

戦争反対!


日米安保条約、日米同盟の下、真っ先に戦死するのは自衛隊員です。

自衛隊員は戦場に行くためや戦死するため、人を殺すために自衛隊員になったのでしょうか?

きっと違うと思います。

しかし、当事者である自衛隊員が声を上げる事がなければ、戦争のない平和な時を維持することは出来ません。


誤った組織、権力者に従う限り危険な状況が無くなる事はありません。

そんな組織だったから、終戦の日でも暴走した軍隊があったのです。


輸入米に頼って行く道は、やがて絶滅の引き金になることになるだろう。


日本は他国のモルモットか?

実験に、他国の輸入食糧を知らず知らずに、食べさせられていると言う話さえあるのです。








2025/11/01

資本主義社会の未来 No.789

 資本主義の限界


日本で資本主義社会が確立されてから今年で115年程である。

資本主義が形成されたのは明治維新(1868年)を起点とし、明治時代の産業革命(1890年代〜1900年代)が挙げられます。

この時期に、工場や機械を用いて商品を大量生産するシステムが確立されました。


世界の産業革命は18世紀後半にイギリスで始まったとされ、綿工場の機械から始まり、蒸気機関の発明と改良が動力源として使われ、工場での大量生産が可能になりました。

その後、製鉄業などにも広がりを見せ、蒸気機関車、蒸気船の開発に発展し、交通網も発達しました。


蒸気機関の発明と改良を行ったのは、スコットランド出身の発明家、機械技術者のジェームズ·ワット(1736〜1819)で、ニューコメン型蒸気機関へ施した改良を通じて、イギリスだけでなく全世界の産業革命の進展に貢献しました。

また日本では、国内だけでなく海外への輸出を目指したことが資本主義の形成を促進することとなった。


「A図」


産業革命後の資本主義社会を、ピラミッド型に表すとA図のようになります。

A図のAは、資本主義社会の初期の頃を支える国民層(国を支える土台)を表しています。

初期の頃は国民層は崩れていません。

③は資本家、株主などの資本主義者の層


資本主義社会になってから貧困の差が拡大し続けました。


             B図、国を支える国民層図

資本の自己増殖により、資本と労働者の間に貧富の差が拡大する社会へと変化。

B図②、資本主義社会では、一番最初に国を支える国民層と言う土台が、貧困に陥り崩れ始めます。

①の国民層部分は崩壊して、資本家拡大のエリアとなります。

なんの対策も取らなければやがて②は崩壊して消えてしまいます。

つまり資本主義社会を支える国民層と言う土台が崩れさってしまいます。


現在進行型で国民層の崩壊が進行していると言える社会です。

文明が途絶えた、滅んでしまった理由には、国を支える国民層が崩壊してしまったからではないだろうか。

樹木の切り株を国民層と言う土台に例えると、切り株が残っていれば新しい芽が出て再生する可能性があります。

しかし、腐ってなくなってしまえば再生できません。

資本主義社会構図も、この状態に似ているのではないかと思います。


資本主義社会での労働力は国民層にあります。

しかし、資本主義社会では貧富の差を拡大させ、国民層の生活安定を確立しようとしません。

したがって、資本主義には限界がいずれ訪れる事になります。


               「C図」

C図の①は時給労働者

②は資本主義企業などに勤めるサラリーマン

③は資本家、株主などの資本主義社会を牛耳る権力者


これは簡単に各収入の増幅を表したものです。

①の賃金の伸びはほとんどありません。

②は③に主に属し働いているので、収入の安定がある程度保障されている状況であるため、増減は有ったとしてもマイナスに向かう事は考えにくい。

簡単に表された格差です。

この図式が現実と言うのが資本主義社会だと思います。



国民の多くが貧困化した原因の一つが経団連





30年前と現在の違い







また、資本主義は地球環境、地球生命維持装置(オゾン層)を破壊してきました。

このまま、資本主義社会が進み、より大量生産に力を入れ突き進むなら、地球そのものの崩壊が早まることでしょう。

また、軍需産業の発展、拡大は地球保護に逆行する産業です。

軍拡に突き進もうとする国々と、それを支持することは地球全体を破壊する事になる。



多かれ少なかれ人類はすでに、知らず知らずに地球崩壊に手を貸す、死の商人の仲間として働いていることを自覚する必要があります。


後書き

資本主義社会の下、1握りのグローバル大企業と大資産家は国境を超えて空前の利益をむさぼり、その一方で世界人口の半分以上、50億人は益々貧しくなっています。


目もくらむような格差だと貧困が拡大していく、これが「自由」な社会と言えるでしょうか。


資本主義の儲けさえすれば「あとは野となれ山となれ」と言う「利潤第一主義」が、人類の生存の自由さえ脅かしているのです。

世界各国の資本主義勢力は、資本主義には限界があることを理解し始めていると言う現実がある。


この先、新しい資本主義のあり方を模索するだろう。

しかし、日本と言う国は今や世界に「逆行」する国である。

表向きは同調を装うが、全く違った考えと行動をしていると言えるだろう。

資本主義社会が生き残るためには、「共創社会」、富が富裕層にだけ集中する社会ではいけないと言うことです。


国民は一部の富裕層、億万長者だけでなく、全ての人に恩恵が行き渡る経済社会を求めているのです。

そのためには「政治」そのものが変わらなければならない。


なぜなら、何事も「権力政治」で決められているからです。









2025/10/29

死の商人=研究開発者 No.788

 あらゆる研究の軍事化


近年日本では、学術会議解体法や経済安保法制など、政府による学問への干渉と、大学などの研究力を軍事に取り込もうとする動きが強まっている。

更に、高市首相は先端技術を軍事に取り込むための軍事費増額を、日本の経済成長戦略だと位置づけています。

また一方で、ロシアによるウクライナ侵略などを受け、日本にも防衛力が必要だ!

反撃力が必要だと、、、

そのためには十分な軍事力が必要だと言う声も増しています。


日本での軍事費増額と軍需産業の海外展開の拡大がもたらす危うさ、日本の研究資源を軍事研究に注ぎ込むことの問題も、このままでは見過ごされてしまいます。


そもそも日本国憲法に照らし合わせれば、軍事的政策は憲法違反です。

日本はこれまで憲法9条のもと、一部の企業を除いて兵器開発に直接繋がる軍事研究を行わないという立場をとってきました。


しかし近年、日本では軍事関係予算が急上昇し、更に国際的な軍用装備市場への参加と、実質上の武器輸出が始まっています。


更に新たな武器開発、そのための軍事研究も拡大しつつあります。


普通の研究を装う軍事研究


大学での軍事研究推進の転機となったのは2015年の「安全保障技術研究推進制度」で、防衛装備庁が研究テーマを設定し、企業や大学に所属する研究者に向けて募集をかけ、採択者に委託研究費を支給するというものです。

この制度は、設置直後の防衛装備庁が管轄し、大学に所属する研究者に実質的な軍事研究を行わせると言うこれまでになかった制度です。

防衛装備庁は多くの研究者が応募に応えてくれるように、防衛装備品に直接関わる研究ではなく、研究成果は原則公開でき、民生分野への応用を期待するものとただし書きをつけて、普通の「民生研究」と変わらないという印象を与えようとしました。


民生研究とは、軍事と民生を合わせた研究分野を指し、軍事目的のために開発された技術が民間分野へ応用されたり、その逆が行われたりする研究や活動を意味する。

軍事目的で開発された技術が民間製品やサービスに応用されることをスピンオフ、民生品や技術が軍事分野へ応用されることをスピンオンと言う。


国から大学への交付金が減少して、研究資金に苦心している大学教員にとっては、魅力的な資金源と言えますが当初の応募は少なめでした。


教員も個々に様々な考えを持っていて、軍事研究に関与したと批判を受けることから二の足を踏んだ一方で、「防衛目的」の研究には抵抗を感じないと考える研究者が多いとの報道もあった。


また、自分の基礎研究の成果が応用されると言う「責任」まで持てないと考え、応募した研究者もいたとされている。


どのようにカモフラージュするか


軍事研究に関与することになった研究者たちは、研究の内容のどこまでを秘密とすべきか、家族や友人にどのように隠すか!

研究室の助手や学生に研究の最終目的が、兵器開発であることをどのように隠すかなど頭を悩ませた。


研究者まで巻き込んで開発する武器。

防衛装備庁は、企業や大学の研究者に資金提供する安全保障技術研究推進制度を、普通の民生研究と変わらないもののように描いています。

MedoinJapanの武器で多くの多国民が、殺されて行くのも遠い未来の事ではないだろう。

その協力者が研究者であると言う事実は消せない。


米ペンシルベニア大学で科学史を担当する教授(スーザン·リンディー)は、2022年の著書で
1960年代頃の米国の大学を事例に、軍事研究を行う事で豊富な資金を獲得した研究者が、「隠れたカリキュラム」に縛られ苦しんだことを紹介しています。


当時は、米国とソビエトを中心とした核兵器やミサイルなどの、厳しい軍事研究の競争に大学の科学者が組み込まれて行った時代でした。


「隠れたカリキュラム」は、軍事研究についての機密保持の圧力が高まる中で、科学者が必要な技術を身に着けて行ったことを指します。


アインシュタインが最も後悔した開発は、原子爆弾の開発に繋がった「E=mc2」と言う論文が意図しない事に利用され、結果、原子爆弾が開発製造されたことです。





第二次世界大戦中にマンハッタン計画で、原子爆弾開発を主導した「原爆の父」と呼ばれたオッペンハイマーは、アインシュタインと同じく理論物理学者でした。

原子爆弾開発を主導した人物だったが、戦後は核兵器開発に反対し軍縮を訴えた。


原子爆弾開発に対する、「後悔」の念が有ったことは間違いない事だろう。

世界には約4000発の核兵器が使用可能な状態であり、原爆が投下された広島型、長崎型の原爆の何十万倍もの損害を招く危険性があります。

また、過去の核実験による健康被害も続いている。

核兵器は人道に反する武器であり、製造も使用もあってはならないものです。
















2025/10/28

アインシュタインの汚点 No.787

 原子爆弾


世の中には開発出来る技術があったとしても、決して製造してはならないものがある。

ましてや人命、全ての命を一瞬で消し去ってしまう開発製造など有ってはならないことです。

しかし、そのおぞましい製造を繰り返す独裁者がいるのも事実だろう。


核廃絶は一国だけの問題でありません。


アルベルト·アインシュタイン(1879〜1955)はドイツ、ウルム生まれの理論物理学者で、相対性理論を発見したことで世界的に知られています。


1933年(53歳)、ナチス政権の勢力によりユダヤ系であったアインシュタインは、アメリカへ亡命しました。


43歳頃のアインシュタイン


アインシュタインの理論は、ロケットや人工衛星、GPSなど、現代技術の基礎となっている。

原子番号99の元素「アインスタイニウム」はアインシュタインの名にちなんで名付けられました。

この元素は自然界には存在しない「人工放射性元素」で、1952年にアメリカの水素爆弾実験の際に、フェルミウムとともに発見された7番目の超ウラン元素であり、主に研究用途にのみ使用されています。


1939年(60歳)、アインシュタインはルーズベルト大統領に宛てた手紙で、ナチスドイツに核開発の可能性があるとし、アメリカも核開発を進めるべきだと進言しました。

これが後のマンハッタン計画(1942年開始)のきっかけの1つとなった。

しかし、アインシュタイン自身は核兵器の開発に直接関わることはなかった、、、

だが、自身の理論が核兵器の基礎となったことに深く苦悩することになる。


マンハッタン計画は、ナチスドイツに核兵器の開発を先に越されることを恐れたアメリカが、極秘に進めた原子爆弾開発計画のことで、イギリス、カナダの科学者、技術者、軍人、民間企業など全米から10万人が関わって原子爆弾を製造しました。


その計画では、ロバート·オッペンハイマーが中心的役割を果たし、ロスアラモス(国立研究所)に設置された研究所で研究が進められた。


この計画で、広島型原子爆弾(ウラン)と長崎型原子爆弾(プルトニウム)の原子爆弾を1945年7月に実験成功、完成した原子爆弾を翌月(8月)に広島と長崎に投下した。


広島、長崎への原爆投下後、科学の負の側面を目の当たりにしたアインシュタインは、原子爆弾の脅威を深く認識し、生涯をかけ一貫して核兵器廃絶を訴える運動に力を注ぎました。

原爆の被害についてアインシュタインは、日本の友人へ「あの運命の決断を阻止するために何もできなかった」と後悔を表明し、湯川秀樹(理論物理学者、1907〜1981)との会見では「こんな私を許してください」と涙ながらに謝罪したとも言われています。





1955年、バートランド·ラッセル(哲学者)とラッセル=アインシュタイン宣言を発表し、核兵器廃絶と平和的解決を訴えました。

その後、この宣言は核兵器廃絶運動の出発点となったのです。