No,510に因んで五島の話
考古学で研究が禁じられている分野がある。
それはかつて、北アメリカ大陸で繁栄した巨人の研究である。
コロンブスによるアメリカ大陸発見以降、ヨーロッパ人によってアメリカ大陸が探索、開拓されてきたが、その過程でいくつかのピラミッド型の墓が発見されている。
その墓の中には巨人の骸骨が安置されていた。
巨人の骸骨の大きさは2.5〜4㍍のものまであったと言う。
発見者の中には、細部まで分析を行いレポートを発表する者もいたが、どう言う訳か黙殺されたという。
旧約聖書に登場する巨人族「ネフィリム」をはじめ、世界各地で「巨人伝説」が言い伝えられているが、この巨人の研究に取り組む者は少ない。
巨人研究の重要人物であるマイケル·デリンガー氏は、旧約聖書の「ネフィリム」の記述から、巨人に比べて我々人間は「バッタ」のような存在であることを指摘し、少なくとも4万年前までアフリカに巨人族が栄える超古代文明が、存在していたことを主張している。
なぜ巨人族が消えたのか、明らかにしようとしないのはおそらく、現人類の仕業に違いないかも知れない。
シマキットンの足跡
五島列島、今里の海岸には巨大な足跡が岩場に刻まれている。
島吉ドンと言う人もいるが、「シマキットン」と僕等は呼んでいた。
足跡は今里から小浜(おばま)へと向かう途中の海岸の岩場(赤丸印)にあり、潮が満ちると海水で見えにくくなる。
子どもの頃は、今里から小浜へ向かう為の道は無かった。
幼稚園の頃、夜中に今里から小浜まで山越えをした記憶が残っている。
その頃、左親指の爪を剥いでいた僕は包帯をしていた。
それ以来親指の爪が割れ爪になってしまった。
冬の寒い夜だった事をかすかに覚えている。
小浜の親戚の家に行く為に山越えしたが、理由など分かるはずもなかった。
足跡のある場所には子どもの頃、魚釣りでよく訪れていた。
波打ち際にその足跡はあり、長い年月を経て、少しずつ小さくなっている。
1970年頃には、まだ大きかったと思うが、その昔は畳2枚分の大きさがあったと言う。
足指の数が9本もあった事を覚えている。
シマキットンは今里から近い三王山(さんのうざん)で生まれたとされ、今里の海岸以外にも足跡が遺されていて、祝言島でも見たと兄たちは言っていた。
小漁師もやっていた親父と島に行った時に見たと言う。
「シマキットンの足跡、対岸は跡次」
三王山の頂上から数百メートル下の所に大きな岩穴がある。
不気味で近づけない、そんな場所を横目に通り過ぎたものだった。
子どもの頃、三王山の周辺をはげ山にしたのは親父である。
山の木々を切り倒し、薪を売ったり、炭焼きをしていた。
小学2年の頃には、山仕事に駆り出されて、しょいこで物を運んだりしていた。
それが原因で背が伸びなかったと思う。貧しさのあまり栄養不足だった事もあるだろう。
もう一つは、小学校に入学したばかりの頃、一つ上の兄に尾てい骨を折られたからだろう。
それ以来、尾てい骨は折れたまま癒着して突起している。
その事で、器官に不具合が生じたまま生きてきた事は言うまでもない!
三王山周辺や佐野原の山々をハゲ山にした親父は、山々の至る所に炭焼き窯も造っている。
もしもその跡が発見されたなら、それは親父が作った炭焼き窯の跡です。
木々を切り倒し続けた親父の償いを僕は今、樹木に携わる形で行っているのかもしれない。
10歳頃までは、ランプ生活でガスなし、水道なし、テレビもないほぼ自給自足の生活だった。
おやつは自然の恵みによるもので、口の周りが真っ黒になるくらい山葡萄を食べたものです。
キウイフルーツに似た、無毛のコッポもよく食べた。
食べ過ぎると便秘になるが、美味だった。
コッポの正式名は「サルナシ」と言う。
「サルナシ」
山仕事を手伝う事が多い中で、ゴリラの顔をした大きな岩があった。
「ゴリラ岩」と呼んでいたが、このゴリラ岩にロープでぶら下がった青年がいた。
その人は、家族ぐるみのお付き合いをしていた、山田さんちのお兄さん。
ゴリラの顔をした岩には、目も鼻も口もちゃんとあったと言う。
顔の長さは20㍍はあると言っていた事を覚えている。
ゴリラ岩の谷底の手前まで、木を切って行った時、ゴリラ岩を真正面から見てびっくりしたものです。
しかし、このゴリラ岩を知るものは少ない。
1990年、帰省の折に8ミリで撮ったテープには、ゴリラ岩が記録されている。
記憶によれば、赤丸印の辺りにゴリラ岩が見えていたと思う。
佐野原川上流へ向かった所、拓けた所に山田さんちがあった。
ゴリラ岩の山の方向には、大瀬良部落がある。
子どもの頃、夜中に道なき道を山越えして大瀬良に行った事があったが、怖かったという記憶は全く無い。
佐野原川に架かる橋、この橋は子どもの頃からの橋で、壊されないで残っているようだ。
橋を渡った左側には、大きな養鶏場があった。
4歳の頃、佐野原川に流されて助けてくれた白岩久四郎さんちがあった場所。
10歳の頃、白岩さんちは大型台風により破壊され、柱4本だけが残っている様子を、子どもたちだけで遠くから眺めていた。
その後、白岩さんちは車道側にお家を建てた。
「現在の白岩さんち」
滝壺の直前で救いあげられ、気を失っていた僕が、目を覚ましたのは数時間後だったと言う。
布団に寝かされていた僕を心配して家族がみていた。
過疎地で運命的に救われたのだった。
その時の記憶は今でも少し残っている。
昔は橋はなかった。
この橋の真下に石渡りがあって、川の真ん中で、白岩さんちのお姉さんが足を滑らせ、おんぶしていた僕を落としてしまった。
その後数百メートル流された。
前日の雨で増水していたのです。
錆びついた廃屋は子どもの頃、農協のカイコの糸を紡ぐ工場だった。
周辺道路沿いにはカイコ畑が一面にあった。
当時、母ちゃんと白岩のお母さんが働いていて、よく子どもらで遊び回っていた懐かしい場所である。
この標識の真裏あたりに実は、半畳程の石積みで出来たお墓がある。
埋もれて見えないが、現在もあるはずです。
この墓は、明治時代の頃、行き倒れの娘さんがこの場所で息絶えてしまった、その若い娘さんのお墓である。
当時桂山に住んでいた、牛引きのベーベー爺さんが(当時は青年だった)見知らぬ娘さんを埋葬したと言う。
その経緯を知る者はもういないだろう。
小学生の頃には、お爺さんをよく見かけたが、口を聞けないような状態になっていた。
その頃もまだ、牛を引いていた事を覚えている。
祝言島(しゅうげんじま)
検索によればしゅうげんじまとなっているが、「しゅうげじま」と呼んでいた。
祝言島には人魚伝説がある。
この事を知る者も余りいない。
◆世界には人魚と思われる骸骨が保管されている場所が存在する。
人魚の背中にはトコブシがくっついていたと、写真を撮った人が言っていた。
中学生の頃に、人魚が泳ぐ姿の写真を見せてもらった事があった。
ほとんど信じられないと思う気持ちの方が大きかった事を覚えている。
戦時中、この島は射撃場にされていという。
岩肌には銃弾の跡が無数にあると聞かされた。
島の湾内には飛行物体が墜落して、沈んでいると聞いたこともあった。
五島列島福江島
沖には、沈められた軍艦が海底に眠っている。
第二次大戦後、1946年4月、米軍により海没処分された旧日本海軍の潜水艦が何キロにも渡り、沈められている。
長い年月の中で魚礁となっている。