緑のお医者の徒然植物記

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2026/09/22

加賀·キリシタン王国と五島キリシタンの歴史 No.869

 消し去られたキリシタンの歴史

1630年代後半に、徹底した「キリシタン排除」と記録の抹殺(消去)が行われた。

それは、今から412年前の1614年(慶長19年)徳川幕府により発令された禁教令によってキリシタン弾圧が本格的に始まりました。

1614年は歴史的に戦国時代の末期に当たる、1467年の応仁の乱から1573年の室町幕府の滅亡または、1615年の大阪夏の陣までの148年間が戦国時代とされています。

徳川幕府が全国に禁教令を発令したことからキリシタン(切支丹)弾圧は始まりました。

加賀藩(現在の石川県)におけるキリシタンの弾圧は、禁教令を機に本格的な取り締まりが始まりました。

最初の始まりは1587年に豊臣秀吉が伴天連(バテレン)追放令を出した際、信仰を守り通した高山右近は領地を没収されました。

翌、1588年前田利家·まつ夫妻が高山右近を客将として金沢に迎え入れ、26年間もの長きにわたり保護しました。

前田利家(前田家)に招かれて26年間滞在していたキリシタン大名である高山右近の存在により、一時は1500人の信者が集まる「キリシタン王国」と呼ばれるほど信仰が盛んとなっていました。

高山右近(洗礼名=ジュスト)(ポルトガル語で正義の人を意味する)

しかし、その後の1614年、徳川幕府の禁教令によって高山右近はマニラに国外追放されてしまいました。

マニラに追放された高山右近(1552〜1615)はマニラ到着から約40日後の1615年2月3日(慶長20年1月6日)に同地で病気(熱病)により亡くなった。

2ヶ月余りの航海と高齢もあってのことだとされています。

加賀藩は幕府の目を恐れ、表向きは徹底した禁教政策を敷くことになります。

信者たちは能登半島の本行寺(七尾市)などで保護され、表向きは仏教へ転向したとされましたが、実際には「潜伏·隠れキリシタン」として信仰を続けました。

1630年(寛永7年)加賀藩内で、摘発や弾圧、厳しい迫害が行われ、ついに藩内から殉教者(死刑に処される者)が出る事態となった。

藩内にキリシタンが存在することが幕府に露見すればお家潰しになる可能性があった前田家は、他藩のような派手な大量処刑こそ少なかったものの、藩の公式記録や重臣の家譜からキリシタンに関する記述を徹底的に抹消しました。


こうして加賀のキリシタンは歴史の表舞台から消し去られていきました。

能登に伝わる隠れキリシタンの遺物アニマー(霊魂)祭は、石川県七尾市小島町にある本行寺で毎年5月26日に開催される。

約400年続くとされる隠れキリシタンの伝統的な祭礼で、隠れキリシタン料理として神団子汁(芋のでんぷんを使った団子が入った味噌汁)などが振る舞われる。

この団子(じんだごじる·だご汁)の味噌汁は先祖から我が家に伝えられたものだった。

長崎·五島(中通島)へ逃れ隠れた加賀前田家のキリシタン家臣

長崎県五島列島の教会群は250年以上もの厳しい禁教期に耐え抜いた「潜伏キリシタン」の歴史と、解禁後に信仰を復興させた人々の歩みを伝えています。

江戸時代、弾圧から逃れたキリシタン信仰者たちは五島列島へ逃れ、仏教徒を装うなどして密かに信仰を守り続けました。


加賀から逃れたキリシタンの家臣は400年以上前に、前田家の家紋を守るため、家紋を携え五島列島へ隠れ住み、信仰を伝え続けたその史実を伝えたい。


「加賀·前田家の家紋·加賀梅鉢紋」



だがその多くが歴史上でも知られいない。

大瀬良の家紋は梅鉢です。

加賀前田家の家臣だったと伝えられています。

大瀬良で管理されている大瀬良の墓石には前田家の家紋である梅鉢が刻まれています。

その地は、五島列島の大瀬良(おおぜら)と言う集落です。

今ではおお(せ)らと濁らない家庭が多く存在、おお(ぜ)らと濁るのが少ない。

大瀬良の地名はおおぜらと濁るのが本家

古くからの地名には濁音が多く、在郷地名や自然地形に由来する地名ほど濁って発音する傾向が強くなります。

西日本では濁りにくいが、なぜ(ぜ)と濁るのか?

それは古くから使われていたと言う証でもある。

(せ)と濁らないのは連濁が起きていないためとされます。

言いにくい、間違って、例えば(小寺)こでらとか聞き取られるから(せ)とした変更した?などの理由もある。

しかし、五島の大瀬良にはそれを思わせる地形がありません。

前田家の家臣はキリシタンの家臣も含め、全てが苗字を持っていたとさています。

加賀の地でその名(大瀬良)を得ていた可能性があります。

石川県の手取川扇状地はかつて、比楽河川や比良瀬川などと呼ばれた時代もあり、まさに歴史的、地形学的に巨大な瀬(大瀬)そのものと言える広大な堆積地形を形成しています。



「金沢平野、加賀平野にある手取川扇状地」


移り住んだ地の地名に苗字を付けることがあることは歴史的にも確認されていることです。

大瀬良の祖先は前田家の人と五島へ逃れ、隠れ住んだことは、前田家とののち後の関係で分かっています。




「小瀬良(こぜら)教会」

山の険しい斜面の地に隠れ住んで信仰を守り続けたのだろう。

おばあちゃんの旧姓は小瀬良、大瀬良に嫁いで母が生まれた。

大瀬良宗五郎と言う伝道師

大瀬良宗五郎は幕末から明治時代にかけて長崎県の五島列島(中通島)を中心に活動したカトリックのキリシタン伝道士(水方·伝道師)です。

1845年に長崎の浦上で生まれ、1862年頃から水方·洗礼を授ける役職を務め、五島列島の赤波江(あかばえ)、大瀬良、仲知(なかち·ちゅうち)、明松、立串(たてくし)、小串といった集落で先祖伝来の信仰を伝えていました。


五島崩れ

1868年、明治初期にも大弾圧が起きました。

楠原牢屋跡などの悲劇

1868年(明治元年)の年末に久賀島などで始まった「五島崩れ」の弾圧が五島全土に拡大し、指導者をはじめとする信徒らが次々と捕らえられ、民家を転用した牢屋(仮牢)に監禁された。

狭い空間に多くの信徒らが押し込められ、信仰を捨てるよう激しく責苦(せめく·責めさいなまれる苦しみ)や取り調べを受けた。

20坪に約200人が押し込められて42人が犠牲となったとされる悲劇は、同じく五島市内の「牢屋の窄(ろうやのさこだ)殉教事件」としても知られています。

当時の歴史を後世に伝えるため、実際の建物に使われていた柱や木材を利用して、平成8年(1996年)に縮小復元されています。

すぐ近くには1912年に建てられたカトリック楠原教会がある。


1873年2月24日(明治6年)禁教令の解禁と復帰

禁教令が解かれると信徒たちはカトリックへ復帰しました。

その背景と経緯には新たな大弾圧があったからです。

明治新政府も当初は江戸幕府の禁教政策を引き継いでいました。

浦上信徒弾圧事件(浦上四番崩れ)

1867〜1870年に長崎·浦上のキリシタン約3400人が全国各地へ流罪となる大弾圧が発生しました。

この弾圧に対して欧米諸国から強い抗議や非難が相次ぎ、外交問題に発展し、結果的に日本は「信教の自由」へ舵を切る契機となった。

禁教令を見直すことになった明治政府は禁教令の解禁を決定したのです。

坂本龍馬は幕府によるキリスト教迫害の非道さを突いて諸外国の支持を得て、倒幕の契機にするという趣旨の話をしていたことが、佐々木高行の日記に記されています。

しかし、龍馬は1867年12月10日に暗殺されました。

信仰の自由を得た証しとして、各地に祈りの拠点となる教会が次々建てられました。

教会建築に携わった有名な建築家は鉄川与助(1879〜1976年)が知られています。

大工の家に生まれた弥助は長崎県を中心に多くのカトリックの教会堂建築を手がけた魚目(うおのめ)村出身の大工棟梁·建築家です。

27歳で独立した後、28歳で初めて設計·施工を手がけた教会は1907年に献堂された冷水(ひやみず)教会です。

与助は戦前だけでもおよそ30棟の教会を建てたとされ、うち5棟もの教会が国指定の重要文化財となっている。

長崎県には全国の教会総数の1割以上を占める約130もの教会があるとされています。



「旧鯛ノ浦教会」


母親の本籍地である鯛ノ浦には鯛ノ浦教会があります。

1881年、上五島布教の中心として最初の教会が設立され、1903年に十蔵瓦葺きの教会堂へと建て替えられた。

大瀬良と言う地名集落は鯛ノ浦の険しい山の中にある。

立串方面にある、大瀬良·小瀬良も厳しい山間に集落があります。

逃れ隠れ住んたキリシタン信徒らは厳しい環境の中で、米が作れない地であったため、主食はさつまいもであった。

その中で「かんころ餅」が作られ、年末には一日を費やし餅つきを行った。

それは先祖から引き継がれてたキリシタン信徒らの行事だったのかも知れません。

幼少期の我が家でも年末の行事として餅つきが毎年行われていた。

小学校卒業までは主食はさつまいもでした。

そんな弁当を華やかな弁当が始まった頃(時代)に、学友と一緒に食べる事ができなかったのは言うまでもありません。




キリシタンの始まり

1549年(天文18年)にイエズス会の宣教師、フランシスコ・ザビエルを乗せたポルトガル船が鹿児島に到着·上陸し、日本で布教を始めたのが始まりとされています。

1563年(永禄6年)肥前国(ひぜんのくに)の領主である大村純忠が洗礼を受け、日本最初のキリシタン大名となりました。

洗礼名(ドン·バルトロメオ)

肥前国は現在の佐賀県と壱岐市、対馬市の離島。除いた長崎県



前田利家の生誕地

前田利家は荒子城(あらこじょう)現名古屋市中川区荒子町で誕生し、家の基礎を築く始まりとなります。



「前田氏発祥地跡に建つ前田念速寺·中川区前田西町」


利家は織田信長の麾下(きか=軍を指揮するときに旗を持つ)に属して活躍しました。

のちの豊臣秀吉時代には、幼い跡継ぎである豊臣秀頼を支えるために五大老(ごたいろう)の一人となります。

五大老=徳川家康、毛利輝元、宇喜多秀家、小早川隆景=死後に上杉景勝が継承しました。


1599年利家は死去、跡を継いだ前田利長は関ヶ原の戦い(1600年)で徳川方の東軍に属し、北陸の戦局を戦いました。

以後、加賀百万石の大大名として君臨しました。










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