緑のお医者の徒然植物記

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緑のお医者の徒然植物記

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2022/04/26

4月26日 No,577

 鉢の塗り替え

今日は雨が降ってくる前に、気になってた鉢のペン


キ塗りをしました。


もうすぐで本場コルドバではパティオ祭りが始まる頃でしょうか。

コロナ禍で開催されるのかもわかりませんが、それでも花はきれいに咲くでしょう。






我が家のお花もゴールデンウィークが一番きれいに咲くことでしょう。












2022/03/26

新年後3ヶ月No.576

 2022年

年末大晦日でストップしていたブログ

もう3ヶ月、書くこともなかったが

12月の中頃から焼き芋屋を始めました。



焼き芋陽だまり屋

いつ廃業になっても不思議ではありませんが

焼き芋の流行

はっきり言って無縁です。

好きな事をやれた方がいいとは言うけれど


限界はあります。


それでも、苦しい事があっても好きなことやれた方が良いのです。

二度ない人生、まぁ~後悔のない人生なんて

無いと思いますが、、、


        「自作壺焼き窯」




     「焼き芋から作った干しいも」


       「自作メニュー表示板」


        「アク抜き」



        「冷凍焼き芋」







2021/12/31

2021年大晦日No.575

 去り行く日、去り行く一年

今年も最後の日となりました。

いろんな出来事があった一年だったと思います。

思い出になるほどの出来事はありませんが、致命的で大きな事が無かったことは良かったです。

来年がどんな年になるのか、また明るい兆しがあるわけでもないですが、日々の努力は必要なのだと思います。

穏やかな新年を迎えたいと思う次第です。

では多くの人々が穏やかな新年を迎えられるよう願っています。







2021/12/14

クリスマスの木 No.574

 クリスマスの木

クリスマスの木は知恵の樹の象徴とされる。
別名=聖樹(せいじゅ)

コニファー、モミ、トドマツ、エゾマツ、ドイツトウヒ、コーカサスモミなど

全米クリスマスツリー協会によると、クリスマスツリーの種類は59もあるそうです。

基本的には耐暑性や耐寒性に優れている。


クリスマスツリーが日本で最初に飾られたのは今から161年前(1860年)のことで、プロイセン王国公館で飾られた。

その当時の公使であったオイルレンブルクは、天井にとどく程の大きな樹を持ち込み、華やかなツリーを楽しんだと言われています。

『プロイセン王国(1701年)はホーエンツォレルン家の君主が統治したヨーロッパの王国。

現在のドイツ北部からポーランド西部にかけて領土とし、首都はベルリンにあった。

1918年からドイツ革命によりヴァイマル共和政のプロイセン自由州となった』

その後、横浜のスーパーマーケットの「明治屋」が、1886年12月7日、横浜に日本初のクリスマスツリーを飾ったとされる。


『明治屋は1885年(明治18年)に磯野計が、4年間(明治13年)の英国留学によって得た貴重な体験を基に横浜で創業した。

三菱財閥と関係が深く、キリンビールの販売を手掛ける。

貿易商グラバーとの出会いが、明治屋とキリンビールを固く結びつける縁となった。

明治42年、スコットランドから輸入した貨物自動車は、警視庁登録番号「1」で愛称『ナンバーワン自動車』として人気と注目を集めました。

車全体を大きなビン形に仕上げ、街中を走り回り宣伝を行った。

明治屋のナンバーワン自動車は、宣伝カーのはしりとして大きな役割を果たした、広告史に残る快挙であると言えるだろう』


クリスマスツリーはキリストとはおよそ無関係である。

クリスマスツリーの原型は、北欧に住んでいた古代ゲルマン民族の「ユール」と言う、キリスト教が伝来する以前の時代から、北欧に伝わる古い冬至の祭で使われていた「樫の木」である。


冬でも葉を枯らさない樫の木は、生命の象徴とされていました。

ゲルマン民族は現在のデンマーク人、スウェーデン人、ノルウェー人、アイスランド人、アングロ·サクソン人、オランダ人、ドイツ人などがこれに属するが、これらの民族の祖先と考えられる。

ゲルマン民族大移動(3世紀~7世紀)以前の古ゲルマン人を指す場合が多い。


北欧諸国では現在でもクリスマスの事を「ユール」と呼ぶ。


現代では、クリスマスと言えばモミ(樅)の木が定番化しています。

クリスマスはキリスト教の主要な行事ですが、そのルーツは古代ローマ帝国やゲルマン民族の冬至の祭だと言われています。

この時期に行われていた冬至祭が後にキリスト教と融合し、12月25日がイエスの生誕祭とされたのだと言われています。


モミはマツ科モミ属の常緑針葉樹で、北半球の寒冷地から温帯にかけて分布しています。

日本でも本州、四国、九州に分布しています。


         「モミの木」


クリスマスツリーの木として親しまれていますが、大気汚染に弱く、車の排気ガスなどによって枯れてしまう事があります。

北欧やイギリスにはモミ類は自生していないので、ドイツトウヒがクリスマスツリーとして使われることが多いようです。


トウヒ(唐檜)は唐風(中国風)の檜に見立てた名前だと言われています。

ドイツトウヒと同様にモミの木の仲間で、樹皮は暗赤褐色でやや灰色を帯びるが、地衣類が付着して白っぽく見える木が多い。



エゾマツと同種と考える学者もいるが、葉が短く、球果が小さいなどの違いがある。









2021/12/04

ナナカマド No,573

 ナナカマド バラ科 「七竈」

ナナカマド属 落葉高木

材が堅く七度もかまどに入れても燃え残ると言うのが、名前の由来とされるのが一般的な説であるが、実際にはよく燃える。


       「ナナカマドの紅葉」


紅葉や果実が美しい代表的な樹で、北国では街路樹として親しまれている。

北海道、本州、四国、九州、南千島、サハリン、朝鮮半島に分布


北半球に約80種が知られ、このうち中国からヒマラヤ、カラコルム(モンゴル)、天山山脈(中国、キルギス、カザフスタンの国境地帯に連なる山脈)にかけて50種が分布している。

日本には6種が自生する。


       「ナナカマドの果実」

ナナカマド属は葉が奇数羽状葉のナナカマドの仲間と、葉が単葉の「アズキナシ」の仲間に大きく分かれる。


ナナカマドの仲間は果実の表面に皮目がなく、頂部に萼片(がくへん)が残る。

アズキナシの仲間は果実の表面に皮目があり、萼片が残らない。

また、両者を別属にする見解もある。

若木の樹皮は淡褐色で楕円形の皮目があり、ややなめらか。

成木になると暗灰色で浅く裂けるのが特徴です。

材は器具材、機械材、薪炭材などに利用され、樹皮は染料に使われる。

アズキナシ(小豆梨)は、果実が小豆に似て梨のような石細胞を持つのでこの名がある。

広く開けた場所では大木になるものが多く、15メートルにも達する。

若い木では花つきが悪く、ある程度生長しないと花も果実もつけない。


         「アズキナシ」

枝は紫黒色で白い皮目が散在し、目盛りのように見えるのでハカリノメとも呼ばれる。

花は白く初夏に咲く。






2021/11/06

救荒作物サツマイモ No,572

サツマイモ 

ヒルガオ科サツマイモ属 多年草植物
食用部分である「塊根、かいこん」
「甘藷=かんしょ·中国での名前」「唐芋=からいも·中国から来た芋」とも呼ばれる。

原産地=中南部、メキシコを中心とする熱帯アメリカで生まれ、ヨーロッパ、中国、日本などへ広まり各地で栽培されている。


    「べにはるかの若葉」


焼酎の原料やデンプン原料用、菓子用等の加工食品用など幅広く利用され、飼料にも使われて、また食物繊維が多いことから、便秘改善にも役立てられている。

紀元前800~1000年頃には、中央アンデス地方でサツマイモが作られていた。

もともと先住民の人口が多かったメソアメリカや、中央アンデス地方では、スペイン人植民地が王室の許可により、割り当てられた先住農民の労働力を利用して大農園を形成した。

アンデス地方は、コロンビアからチリ北部にかけてアンデス山脈が縦走する地域で、赤道を横切って南北に長く走る。

アンデス山脈は高度が低くなるので雨量も多い。


紀元前200~600年に作られたサツマイモを型どった土器も見つかっています。


これはペルー北海岸の辺りで栄えた「モチェ文化」のものです。

モチェとはペルー北海岸にそそぐモチェ川から名称をとった。

「モチーカ」と呼ばれることも多いが、しかし研究者の間では、スペイン人到着時に北海岸の住民が話していた言葉の名称と言う事で、避ける傾向が強いとされる。

さつまいも祖先種イポメア·トリフィーダ

さつまいもの起源はメキシコやペルー近辺の中南米にあり、イポメア.トリフィーダと言う野生種が祖先種であることが判明している。

従来の分類学では野生の祖先種は、栽培種と同種でその野生型として扱われるようになっている。

北部アンデスの標高約1000㍍の温暖地に位置しているカリ市内を流れるカリ川岸や、そこからアンデス中腹の標高約1500㍍までの路肩や、人家の庭にはトリフィーダの群落や放任栽培と見られるさつまいもがあちこちに見られる。


   「イポメアトリフィーダ」



長い期間に突然変異を起こしたり、他の野生種と交雑したりして多くの変異を生じ、その中から人為的に選抜されて現在のサツマイモが誕生したとされる。

モチェ文化はモチカ文化とも言われ、紀元後100年頃から500年頃までペルーの北部海岸地方に生まれた、いわゆるアンデス文明の開花期の地域文化の一つで700年頃まで栄えたと言う。


ヨーロッパへはコロンブスが15世紀末にアメリカから持ち帰ったのが始まりとされる。

だが、涼しすぎる気候が合わなかったことで、余り作られることはなかった。

温暖なアメリカ、インド、東南アジアの植民地に持ち込まれたことで世界中に拡がる事となった。


東南アジアへはスペイン人やポルトガル人が持ち込んで、その後中国へと拡がったとされる。

しかしそれより前に、熱帯アメリカからポリネシアの島々に持ち込まれたと言う説もある。


この事が本当の事であるかを実証するため、ノルウェーの探検家「トール·ヘイエルダール」は1947年4月18日、古代のいかだと同じものを造り、南米ペルーから太平洋を渡り、102日かかってタヒチまでたどり着きます。

この事は「コン·ティキ号探検記=コンチキ」と言う本にまとめられています。


日本へのサツマイモの伝来ルートは諸説あると言われていますが、すでに紀元前100年頃に南米から海路ポリネシアに伝わったとも言われています。

記録として残っているものによれば、16世紀にインド、マレー、インドネシア、フィリピンへと伝わり、中国の福建省には1584年に伝えられています。


日本へは1597年に宮古島に入ったのが最初とされ、琉球諸島へは福建省から1605年に入って栽培され始めたとされ、1609年以降薩摩の領有権支配に伴って薩摩地方へと伝わったことでさつまいもと呼ばれ、その後主に九州地方で栽培されるようになったとされる。


その後、江戸時代初期から中期の頃の度重なる飢饉によって★救荒作物として注目され、西南暖地を中心としながら全国に普及していった。


第二次世界大戦後の日本では大増産期(昭和30年の700万トン)があったが、その後、食生活が安定化するとともにその生産は激減し、一部の貧困家庭だけが主食作物として使用した。

ピーク時の昭和30年から18年後、子どもの頃の我が家の主食はサツマイモであった。

給食もない小学校で、サツマイモだけの弁当を教室で食べることがなかなかできなかった、そんな思いをしたが同年代でもそのような経験をした人は少ないだろう。

いかに貧困家庭だったかがわかると思う。



★救荒(きゅうこう)作物とは、一般の作物が不良で凶作の時にも生育して収穫できる作物で、蕎麦、さつまいも、しじゃがいも、ひえなど天候異変に強く、荒れ地でも育成可能なもので、また「救荒植物」と言う場合は、通常は食用にしないが、飢饉の際食用にする野生の植物を指す。

農作物の育成技術が貧しかった昔々は、農作物か十分に実らず、食物が欠乏して人々が飢え苦しむ時代があった。


日本では、昔ほどの生産量はないが、関東や
南九州の畑作地域においては、地場産業の振興になくてはならない重要な作物となっている。


茨城県は全国第二位のサツマイモの産地で、紅あずま、紅まさりなどが知られる。


「紅こがね」はJAなめがた(行方)しおさいのオリジナルブランドで、JAなめがたしおさいが出荷した紅あずまだけにこの商品名を使用することができます。


9ヵ月間も熟成された「熟成紅こがね」は糖度が非常に高く、焼き芋にすると甘味が更に増し、しっとりとした口当たりで、冷めても柔らかで濃厚風味を味わうことができると言う。

たくさんの芋を頂いたので、芋けんぴを作ってみた。

安納芋は通販で買ったので、焼き芋にした残りで芋けんぴを作ってみました。

基本的に安納芋は芋けんぴには向いていない。

しっとり系はカリッとしませんね。


◉さつまいも関連ブログ
大飢饉を救ったのはさつまいも No,578