緑のお医者の徒然植物記

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2024/02/28

梅にまつわる話 No.684

 梅にまつわる話

梅の起源、伝来、花木の歴史は古く、今から二千年前にはすでに存在していたと言われています。

明確な歴史は不明とされ、二千年前に発行された中国最古の薬物学書の『神農本経』の中に梅に関する記述があることから、そう伝えられるようになったと考えられています。


その薬物学書にはすでに梅の効用が説かれている。

また、日本に梅が伝来したのは3世紀の終わり頃とされ、その伝来には諸説がある。

一つは、百済の帰化人、王仁がもたらしたとする説

❉百済(くだら、ひゃくざい、ペクチャ)は朝鮮半島南西部を占めた古代国家で、4世紀頃から唐、新羅連合軍に滅ぼされる660年まで存在し、新羅(しんら、しらぎ)や高句麗(こうくり)とともに朝鮮半島に存在していました。

❉王仁(わに)とは、古代百済から渡来した学者のこと

百済の滅亡によって日本(倭国、わこく)は朝鮮半島から完全に切り離されてしまった。

百済滅亡は日本にとっては大事件だったのです。

もう一つの説は、欽明天皇の大和時代に中国、呉の高僧がもたらしたという説

❉欽明天皇(きんめいてんのう、509〜571)は531年に即位し、日本の第23代天皇となりました。

古代中国の歴史書「書経」には梅の産地中国では、紀元前600年頃には梅漬けの酢を使った「塩梅」という調味料が存在していたと記されている。

また、現存する農業書である「斉民要術」には梅の加工品には烏梅、白梅、蔵梅があったことが記されている。

✫烏梅(うばい)は、完熟した梅の実を燻製にして作られたもので、濃縮された酸味が強いため、薬用とされていました。

✫白梅は、熟した実を塩水につけ乾燥させた食品。

✫蔵梅は、日本で言うと砂糖漬けのようなものであったとされる。

日本で普段食べている「梅干し」は日本独自のものである事が窺い知れる。

「梅干し」という名称は文明10(1478年)の室町時代では「むめつけ」と言われ、明応2(1493年)には「梅つけ」との記述があり、延宝8(1680年)江戸時代には「梅ほし」と記述されており、時代ごとに呼び名も異なっていました。

当時の梅干しは現在のように広く民に知られた存在ではなく、塩が希少であった室町期まで梅干しは高級品とされていました。

果実が注目されて生産されるようになったのは江戸時代以降ですが、日本独特の「梅干し」という優れた健康食品の開発とともに、各地で多くの品種が作り出され、現在でも和歌山や水戸などの特産品として残っています。

日本の文献に「梅」という文字が最初に現れるのは日本最初の漢詩集とされ、懐風藻(かいふうそう、751年)の中に収められています。

現存する日本最古の「万葉集」歌集にも梅を題材とした和歌が数多く記されています。

❉万葉集=桂本万葉集(平安時代中期)、西本願寺本万葉集(鎌倉時代後期の写本)

『万葉集』は7世紀前半から759年までの約130年間の歌が収録されています。

万葉集では桜に比べても梅が圧倒的に多く詠まれています。

それは、中国から渡来した珍しいもので、美しい花を咲かせた梅であったことや、春を呼ぶ花として季節が変わりゆくさまや、喜びの気持ちを梅に託して詠んだのでしょう。

菅原道真は梅をこよなく愛した人物として有名


梅干しの種の中身を俗称で「天神様」と呼ぶが、その天神様とは、平安期に右大臣として活躍し、学問の神様として広く信仰される菅原道真=すがわらのみちざね(845〜903)や、道真を祀る天満宮の事を言う。

道真は梅にまつわる歌を多く残している。

梅干しの種の中心部分を「天神様」と呼ぶようになったのは、江戸時代の半ばで「梅を食うとも種食うな、中に天神寝てござる」という歌が庶民に語られるようになり広まったとされる。

梅の種は食べ過ぎるとお腹に良くないと考えられていたため、特に子ども等が誤って食べてしまわないように、人々が知恵を絞ってこのような歌を作ったのかも知れません。


人々の天神信仰という事もあって、道真が愛した梅の種の中に「天神様が宿っている」という伝えは、庶民にはとっても素直に受け入れられたのではないだろうか。

梅の種を粗末に扱うことのないようにと、太宰府天満宮には江戸時代に「梅の種納め所」が設けられていました。

この種納め所は、現在も太宰府天満宮本殿の右側に残っています。


     「梅の種納め所」

❄梅の種納め所
天保15年(1845年)正月建立

所在地=福岡県太宰府市宰府4丁目7
太宰府天満宮

幼少期の頃、我が家では梅の種を海に投げ捨てると海が荒れるから、捨ててはいけないという言い伝えがあった。

実際に行って見たことはないが、先代の伯父さんが小漁師をやっていた事も関係があるのかも、しかし現実に起きるのかは定かではありません。


梅は咲いたか?桜はまだかいな?


梅は咲いたか 桜はまだかいな

ただ ただ ひらひら

華麗に待ちわびる花

梅は咲いたか 桜はまだかいな

この歌は江戸時代から明治時代の花柳界で流行った端唄(はうた)で、このあとの歌詞に、「柳やなよなよ風次第 山吹や浮気で色ばかり しょうがいな」と続く。


しょんがえ節という流行歌を基にした江戸端唄で、花柳界の芸妓たちを季節の花々に例えて歌っています。

花柳界の芸妓の世界では、梅は若い芸妓、桜は上の姐さんといったところでしょうか。

端唄は邦楽の一種で三味線を伴奏として歌う。

端歌、葉歌、破歌、葉唄などの表記があり、時代や地域によって定義が異なる。

端唄は、江戸時代中期に江戸市中で好まれて唄われた大衆はやり唄で、小唄の母体となるもので、小唄に比べると表現の仕方はあまり技巧的(精巧的技能)ではなく、撥(ばち)弾きであるため華やかとされる。


花言葉と飛梅伝説

梅の花は寒さや厳しい環境にも耐え咲くことから、逆境にも負けずに高潔な態度を持つことを象徴しています。

積極的で良い意味の花言葉が多いことから、特に贈り物として渡しても喜ばれると思います。

花言葉の「忠実」は菅原道真の飛梅(とびうめ)伝説が由来とされる。

日頃から庭の桜や松、梅の木との別れを惜しみ、「東風(こち)吹かば にほひおこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」

現代語に訳すと、梅の花よ、春風が吹いたら香りを太宰府にまで届けておくれ、私が居ないからと言って、咲く春を忘れてはいけないよという意味の歌です。

主人との別れを受けた桜の木は、悲しみの余り耐えきれずに枯れてしまった。

松と梅の木は主人のいる太宰府を目指すが、松の木は途中で力尽きてしまった。

辿り着けたのは梅の木だけでした。

この伝説が「忠実」という花言葉の由来とされています。

太宰府天満宮の樹齢千年を超える「飛梅」はご神木として現存しています。

この梅の木は境内のどの梅の木よりも先に開花するという。


梅干しは三毒を断つ

梅干しを食べると体の様々な不調の改善が期待できるということわざで、この事は日本に現存する最古の医学書「医心方」にも記載されている。

❉医心方(いしんぽう)とは

平安時代に宮中医官を務めた「鍼博士の丹波康頼」が、中国の多くの医書を引用して病気の原因や治療法を述べたもので、日本に現存する最古の医学書とされている。

丹波康頼=たんばのやすのり(912〜995)


三毒とは、「水毒」「食毒」「血毒」のことを指しますが、それぞれの具体的な意味は、水毒は体の水分の汚れを改善するとされる。

食毒は、暴飲暴食や食あたりなどの食事による毒の改善。

血毒は、血液の流れが原因の毒の改善とされる。

梅に由来することわざは多く存在しています。

梅がいかに日本人の生活に根付いていたものかをこの事からも窺い知る事ができるだろう。

現在の梅は大別して観賞用の花梅と、果実栽培用の実梅とに分けられますが、みうの中にも美しい花をつける物が少なくありません。

梅は花木として日本人に愛され、観賞用が先行し、花色や花形なとを多様な品種が多く作り出されてきました。

梅は早春を飾る花木として、桜と並び重要な役割を担っています。








2024/02/21

武雄の大クス No,683

 武雄の大クス





武雄の大クスは、温泉と焼き物で知られる佐賀県武雄市のほぼ中心部の、武雄神社の境内にある。

樹齢三千年とされるクスの木は武雄神社のご神木となっている。

空洞は上部まで通じ、中には20人ほどが入れる広さを持つ。

市指定天然記念物にとどまっているのが不思議なほどの名木であり、国指定天然記念物に格上げられてもいいと思える巨木である。

縄文杉や蒲生の楠(鹿児島県)などが有名であるが、武雄市も巨木の宝庫である。


国指定天然記念物の「川古の大楠」は環境省の調査で全国3位に選ばれている。

武雄の大クスは全国7位にランクする巨木

所在地=武雄市大字武雄5337-1








2024/01/16

センダン No.682

 センダン(栴檀)センダン科

別名アフチ、オオチ、アミノキ

果実は薬用として知られ、しもやけ、ひびには果肉を潰して外用する。

樹皮は駆虫剤、虫下しなど

材は器具や建築に使われる有用樹です。

万葉の昔から古名の「アフチ」で親しまれている。

沿海の山野に生える落葉高木で、昔は獄門のさらし首の木として使われたこともある。

リンネの植物の種にも記載されている。

カーネル·フォン·リンネはスウェーデンの博物、生物、植物学者で分類の父と称される。

❉リンネ関連ブログ
博物:植物学者カーネル·フォン·リンネ
No.78


琴平の大センダン

樹齢約300年
樹高18メートル

国指定天然記念物
1953年(昭和28年3月31日)





❉所在地
香川県仲多度郡琴平町129

琴平町には讃岐の金毘羅さんと呼ばれ、古くから海の守り神として知られる金刀比羅宮(ことひらぐう)があり、参拝客で賑わってきました。

長い石段を下りてしばらく行くと、観光バスの駐車場に大センダンが見えてくる。

難渋するお遍路さんのために植えられたとも言われ、四国ではよく目にする樹種です。

❉難渋(なんじゅう)とは、物事の処理や進行が難しくて、スラスラ行かない事を意味するが、そのさまを指すこともある。

琴平の大センダンの他に、国指定天然記念物に指定されている徳島県阿波の野神の大センダンがある。








2023/12/09

銀南木の子安イチョウ No,681

 銀南木の子安イチョウ

いちょうのきのこやすイチョウ


青森県にはイチョウの巨木が多く、北金ヶ沢の大イチョウ(青森県深浦)は日本一の幹周りで22m、全国10位以内に4本のイチョウが選ばれている。

銀南木の子安イチョウは、青森県で5位になるが、県指定天然記念物となっている。

字名の銀南木からも、イチョウとともに歩んできた集落であることがうかがい知ることができる。

自らの重さに耐えきれず、幹から剥がれて傾いた枝は、先端が地面に触れて新たに幹として立ち上がり、別の株として生長している。

この子安イチョウは、この地に縁の深い法身国師のお手植えであると伝えられている。

法身(法心)国師(禅師)(1189〜1273年)は、鎌倉時代に常陸国真壁(現茨城県)に生まれました。

真壁の名僧で、俗名は真壁平四郎(法身性西禅師=ほっしんしょうざいぜんじ)

南宋(なんそう=中国の王朝の一つ)に渡り、厳しい修行を積み、後に名僧となり、帰国して国師となった。

瑞巌寺(ずいがんじ)の前身である松島円福寺を開山し、北条時頼の依頼により松島の瑞巌寺を再建したとされる。

また、津軽に法蓮寺を開いた髙僧と言われている。

79歳で故郷真壁に戻り、その後青森県北上郡の草庵で85歳の生涯を閉じました。








✿銀南木の子安イチョウ
所在地=青森県北上郡七戸町銀南木19
銀南木農村公園
樹齢700年以上
樹高24m、幹周り12.2m










2023/12/07

西蓮寺と大イチョウ No,680

 西蓮寺の大イチョウ

西蓮寺の大イチョウは、この寺を創建した最仙上人(さいせんしょうにん)によって植樹されたとされる。

昭和39年(1964)7月31日に県指定天然記念物に登録された。

1号株大イチョウは樹高約25mで幹周り約6メートル
明治16年(1833)の火災で幹が焼けて細くなったとされる。

この時の火災で建造物は消失しました。

現存する建造物は、その後の復興で建てられたものです。

1号株大イチョウの根元には子安観音を祀っています。



   「鮮やかに紅葉した1号株」



「株元が火災により細くなった状態」




 「子安観音を祀っている1号株」


2号株大イチョウは樹高約27mで幹周り約8メートル

大正6年(1917)の台風で幹の中途が折れる被害を受けました。

根元には稲荷社を祀っています。


  「稲荷社を祀っている2号株」



 「緑の葉がまだ見受けられる2号株」



1.2株ともに樹齢は1000年以上と言われ、気根を垂れ下げている、俗に「チチ」と称されるものが数多くついて、イチョウの老樹の特徴を見せている。


「かなり高い部分にもチチが見られる」


老樹である特徴の垂れ下がったチチ(気根)



イチョウは二億年前のジュラ紀から現存する大変古い樹種で、当時は日本にも自生していましたが、古い時代のうちに滅んだと考えられています。

日本で見られるイチョウは、中国浙江(せっこう)省の原産と言われ、飛鳥時代(593〜710年)の仏教伝来とともにもたらされ、初めは寺社を中心に植えられました。

室町時代(1338〜1573年)以降、一般に広まっていったとされる。

太平洋戦争の大空襲で焼け野原になった東京に、最初に芽生えたのもイチョウで、東京都の樹木に指定されています。

◉関連ブログ
イチョウ「銀杏、公孫樹」No,178



西蓮寺(さいれんじ)

西蓮寺は、延暦(えんりゃく)元年、天応2年
西暦782年(奈良時代)天台宗(てんだいしゅう)の僧侶、最澄(さいちょう)の弟子である最仙上人(さいせんしょうにん)によって、創建されたと伝えられている。



    「西蓮寺正門」



 「火災で消失後再建された瑠璃殿」


      「瑠璃殿」

関東地蔵霊場65番札所、関東薬師霊場78番札所、常陸七福神(寿老人)

最仙上人は、天台宗を常陸国に布教する上で大きな役割を果たしたとされる。

天台宗(てんだいしゅう)は中国を発祥とする「大乗仏教=だいじょうぶっきょう」の宗派のひとつで、妙法蓮華経(法華経)を根本仏典とするため、天台法華宗(てんだいほっけしゅう)とも呼ばれる。


大乗仏教は伝統的に、ユーラシア大陸の中央部から東部にかけて信仰されてきた仏教の宗派。

日本の仏教は全て大乗仏教であるが、大乗仏教の経典は釈迦の死後、500年以降に成立しており、仏陀(ぶっだ=釈迦)の直説ではなく、後世に成立した偽経という批判にあった。


西蓮寺の木造薬師如来坐像は、貞観時代(じょうがんじだい、859〜877年)に最仙上人が自作したものと伝えられている、茨城県内最古の木像とされる。


最仙上人、自ら彫ったとされる木像写真






この時代は空海、最澄などの渡唐僧(唐に渡った)が密教美術を伝え、神秘的な木像が多く作られた時代と言われている。


最仙上人は現在の筑西市関本中の茶花(ちゃばな)家に生まれました。

年長になり仏教に信仰を持ち、後に日本から唐に渡って茶の種を持ち帰り、故郷関本で栽培を始めました。


茶花家の茶畑から収穫した初茶を、本尊薬師如来に献上する「献茶の儀式」が昭和初期迄続いていた。

茶花性はここから生まれたとされる。


西茨城県桜川真壁の「椎尾山薬王院」は、最仙上人が西蓮寺創建と同年に開山した古寺とされる。


◉写真撮影日
2023年12月7日

❉西蓮寺
所在地=茨城県行方市西蓮寺504











2023/12/06

三春滝桜 No,679

 三春滝桜

エドヒガン系ベニシダレザクラ 別名=イトザクラ

枝垂れ桜は細い枝が垂れるものをいう。

花弁は変異が多く個体によって形や色、大きさなどがかなり異なる。

枝が垂れる原因について、これまでは枝の上側と下側の生長速度の違いによって起こると考えられてきたが、枝や葉の生長速度が垂れない種類より速いために自重によって枝が垂れ下がり、その後木質化が起こり、垂れが
固定されるということが研究によって解明されました。

三春滝桜は大正11年(1922年)に国の天然記念物に指定されました。

樹齢1000年以上の有名な桜として、岐阜県の根尾谷淡墨桜(ねおだにうすずみざくら)、山梨県の山高神代桜(やまたかじんだいざくら)と並び、日本三大桜のひとつとして選定されている。

滝地区にあることと、滝が流れ落ちるように咲く様子から滝桜の名が付けられたとされる。

毎年開花期には、全国から多くの花見客が訪れる。

三春町の里山の斜面にはたくさんの枝垂れ桜が植えられています。

三春町の名は梅、桜、桃が春一度に咲くことに由来すると言われています。

1960年頃、三春町に植木を育てて三代目という、柳沼吉四郎によって植えられた桜が多く存在する。

また、滝桜の種を全国に普及させたことで、日本各地で滝桜の子孫樹が植樹されるきっかけとなった。

1997年頃、地元の柳沼吉左ヱ門夫妻たちは、桜愛好家の期待に応えて滝桜の種をまき、育てた50本を超える苗を全国に送り出していた。

人によって踏み固められてた滝桜は、当時、樹勢が衰えていたことから町も、樹医の診断などをもとに滝桜の周りの遊歩道の整備を行ったり、堆肥などを根元に入れるなど、土壌改良を行った。

樹勢の回復を願う、滝桜を愛する人たちに大切に守られてきました。







✿三春滝桜
所在地=福島県田村郡三春町滝桜久保296



福聚寺(ふくじゅうじ)桜

天正七年(1579年)安土桃山時代、三春から嫁ぐ事になった大名田村清顕(きよあき)の娘である愛姫(めごひめ)は、わずか11歳で伊達政宗と結婚するため三春を離れました。

その後、愛姫が三春に訪れることはなく、1653年承応2年、86年の生涯を江戸で閉じた。

愛姫のお墓は宮城県松島陽徳院にあります。

三春町御免町の福聚寺には、愛姫の生誕を記念して植えられたのではないかと考えられる桜(福聚寺桜)がある。





✿福聚寺桜
所在地=福島県田村郡三春町御免町135


推定樹齢450年以上のベニシダレザクラは、「愛姫桜」とも呼べるものでこれはひとつの浪漫かも知れません。

三春滝桜の子孫樹が平成18年12月18日(2006年)、仙台市青葉区西公園に植樹されました。

この子孫樹は三春から伊達政宗に嫁いだ正室愛姫にあやかり、愛姫桜と命名されました。