緑のお医者の徒然植物記

Translate

緑のお医者の徒然植物記

検索結果

2021/12/31

2021年大晦日No.575

 去り行く日、去り行く一年

今年も最後の日となりました。

いろんな出来事があった一年だったと思います。

思い出になるほどの出来事はありませんが、致命的で大きな事が無かったことは良かったです。

来年がどんな年になるのか、また明るい兆しがあるわけでもないですが、日々の努力は必要なのだと思います。

穏やかな新年を迎えたいと思う次第です。

では多くの人々が穏やかな新年を迎えられるよう願っています。







2021/12/14

クリスマスの木 No.574

 クリスマスの木

クリスマスの木は知恵の樹の象徴とされる。
別名=聖樹(せいじゅ)

コニファー、モミ、トドマツ、エゾマツ、ドイツトウヒ、コーカサスモミなど

全米クリスマスツリー協会によると、クリスマスツリーの種類は59もあるそうです。

基本的には耐暑性や耐寒性に優れている。


クリスマスツリーが日本で最初に飾られたのは今から161年前(1860年)のことで、プロイセン王国公館で飾られた。

その当時の公使であったオイルレンブルクは、天井にとどく程の大きな樹を持ち込み、華やかなツリーを楽しんだと言われています。

『プロイセン王国(1701年)はホーエンツォレルン家の君主が統治したヨーロッパの王国。

現在のドイツ北部からポーランド西部にかけて領土とし、首都はベルリンにあった。

1918年からドイツ革命によりヴァイマル共和政のプロイセン自由州となった』

その後、横浜のスーパーマーケットの「明治屋」が、1886年12月7日、横浜に日本初のクリスマスツリーを飾ったとされる。


『明治屋は1885年(明治18年)に磯野計が、4年間(明治13年)の英国留学によって得た貴重な体験を基に横浜で創業した。

三菱財閥と関係が深く、キリンビールの販売を手掛ける。

貿易商グラバーとの出会いが、明治屋とキリンビールを固く結びつける縁となった。

明治42年、スコットランドから輸入した貨物自動車は、警視庁登録番号「1」で愛称『ナンバーワン自動車』として人気と注目を集めました。

車全体を大きなビン形に仕上げ、街中を走り回り宣伝を行った。

明治屋のナンバーワン自動車は、宣伝カーのはしりとして大きな役割を果たした、広告史に残る快挙であると言えるだろう』


クリスマスツリーはキリストとはおよそ無関係である。

クリスマスツリーの原型は、北欧に住んでいた古代ゲルマン民族の「ユール」と言う、キリスト教が伝来する以前の時代から、北欧に伝わる古い冬至の祭で使われていた「樫の木」である。


冬でも葉を枯らさない樫の木は、生命の象徴とされていました。

ゲルマン民族は現在のデンマーク人、スウェーデン人、ノルウェー人、アイスランド人、アングロ·サクソン人、オランダ人、ドイツ人などがこれに属するが、これらの民族の祖先と考えられる。

ゲルマン民族大移動(3世紀~7世紀)以前の古ゲルマン人を指す場合が多い。


北欧諸国では現在でもクリスマスの事を「ユール」と呼ぶ。


現代では、クリスマスと言えばモミ(樅)の木が定番化しています。

クリスマスはキリスト教の主要な行事ですが、そのルーツは古代ローマ帝国やゲルマン民族の冬至の祭だと言われています。

この時期に行われていた冬至祭が後にキリスト教と融合し、12月25日がイエスの生誕祭とされたのだと言われています。


モミはマツ科モミ属の常緑針葉樹で、北半球の寒冷地から温帯にかけて分布しています。

日本でも本州、四国、九州に分布しています。


         「モミの木」


クリスマスツリーの木として親しまれていますが、大気汚染に弱く、車の排気ガスなどによって枯れてしまう事があります。

北欧やイギリスにはモミ類は自生していないので、ドイツトウヒがクリスマスツリーとして使われることが多いようです。


トウヒ(唐檜)は唐風(中国風)の檜に見立てた名前だと言われています。

ドイツトウヒと同様にモミの木の仲間で、樹皮は暗赤褐色でやや灰色を帯びるが、地衣類が付着して白っぽく見える木が多い。



エゾマツと同種と考える学者もいるが、葉が短く、球果が小さいなどの違いがある。









2021/12/04

ナナカマド No,573

 ナナカマド バラ科 「七竈」

ナナカマド属 落葉高木

材が堅く七度もかまどに入れても燃え残ると言うのが、名前の由来とされるのが一般的な説であるが、実際にはよく燃える。


       「ナナカマドの紅葉」


紅葉や果実が美しい代表的な樹で、北国では街路樹として親しまれている。

北海道、本州、四国、九州、南千島、サハリン、朝鮮半島に分布


北半球に約80種が知られ、このうち中国からヒマラヤ、カラコルム(モンゴル)、天山山脈(中国、キルギス、カザフスタンの国境地帯に連なる山脈)にかけて50種が分布している。

日本には6種が自生する。


       「ナナカマドの果実」

ナナカマド属は葉が奇数羽状葉のナナカマドの仲間と、葉が単葉の「アズキナシ」の仲間に大きく分かれる。


ナナカマドの仲間は果実の表面に皮目がなく、頂部に萼片(がくへん)が残る。

アズキナシの仲間は果実の表面に皮目があり、萼片が残らない。

また、両者を別属にする見解もある。

若木の樹皮は淡褐色で楕円形の皮目があり、ややなめらか。

成木になると暗灰色で浅く裂けるのが特徴です。

材は器具材、機械材、薪炭材などに利用され、樹皮は染料に使われる。

アズキナシ(小豆梨)は、果実が小豆に似て梨のような石細胞を持つのでこの名がある。

広く開けた場所では大木になるものが多く、15メートルにも達する。

若い木では花つきが悪く、ある程度生長しないと花も果実もつけない。


         「アズキナシ」

枝は紫黒色で白い皮目が散在し、目盛りのように見えるのでハカリノメとも呼ばれる。

花は白く初夏に咲く。






2021/11/06

救荒作物サツマイモ No,572

サツマイモ 

ヒルガオ科サツマイモ属 多年草植物
食用部分である「塊根、かいこん」
「甘藷=かんしょ·中国での名前」「唐芋=からいも·中国から来た芋」とも呼ばれる。

原産地=中南部、メキシコを中心とする熱帯アメリカで生まれ、ヨーロッパ、中国、日本などへ広まり各地で栽培されている。


    「べにはるかの若葉」


焼酎の原料やデンプン原料用、菓子用等の加工食品用など幅広く利用され、飼料にも使われて、また食物繊維が多いことから、便秘改善にも役立てられている。

紀元前800~1000年頃には、中央アンデス地方でサツマイモが作られていた。

もともと先住民の人口が多かったメソアメリカや、中央アンデス地方では、スペイン人植民地が王室の許可により、割り当てられた先住農民の労働力を利用して大農園を形成した。

アンデス地方は、コロンビアからチリ北部にかけてアンデス山脈が縦走する地域で、赤道を横切って南北に長く走る。

アンデス山脈は高度が低くなるので雨量も多い。


紀元前200~600年に作られたサツマイモを型どった土器も見つかっています。


これはペルー北海岸の辺りで栄えた「モチェ文化」のものです。

モチェとはペルー北海岸にそそぐモチェ川から名称をとった。

「モチーカ」と呼ばれることも多いが、しかし研究者の間では、スペイン人到着時に北海岸の住民が話していた言葉の名称と言う事で、避ける傾向が強いとされる。

さつまいも祖先種イポメア·トリフィーダ

さつまいもの起源はメキシコやペルー近辺の中南米にあり、イポメア.トリフィーダと言う野生種が祖先種であることが判明している。

従来の分類学では野生の祖先種は、栽培種と同種でその野生型として扱われるようになっている。

北部アンデスの標高約1000㍍の温暖地に位置しているカリ市内を流れるカリ川岸や、そこからアンデス中腹の標高約1500㍍までの路肩や、人家の庭にはトリフィーダの群落や放任栽培と見られるさつまいもがあちこちに見られる。


   「イポメアトリフィーダ」



長い期間に突然変異を起こしたり、他の野生種と交雑したりして多くの変異を生じ、その中から人為的に選抜されて現在のサツマイモが誕生したとされる。

モチェ文化はモチカ文化とも言われ、紀元後100年頃から500年頃までペルーの北部海岸地方に生まれた、いわゆるアンデス文明の開花期の地域文化の一つで700年頃まで栄えたと言う。


ヨーロッパへはコロンブスが15世紀末にアメリカから持ち帰ったのが始まりとされる。

だが、涼しすぎる気候が合わなかったことで、余り作られることはなかった。

温暖なアメリカ、インド、東南アジアの植民地に持ち込まれたことで世界中に拡がる事となった。


東南アジアへはスペイン人やポルトガル人が持ち込んで、その後中国へと拡がったとされる。

しかしそれより前に、熱帯アメリカからポリネシアの島々に持ち込まれたと言う説もある。


この事が本当の事であるかを実証するため、ノルウェーの探検家「トール·ヘイエルダール」は1947年4月18日、古代のいかだと同じものを造り、南米ペルーから太平洋を渡り、102日かかってタヒチまでたどり着きます。

この事は「コン·ティキ号探検記=コンチキ」と言う本にまとめられています。


日本へのサツマイモの伝来ルートは諸説あると言われていますが、すでに紀元前100年頃に南米から海路ポリネシアに伝わったとも言われています。

記録として残っているものによれば、16世紀にインド、マレー、インドネシア、フィリピンへと伝わり、中国の福建省には1584年に伝えられています。


日本へは1597年に宮古島に入ったのが最初とされ、琉球諸島へは福建省から1605年に入って栽培され始めたとされ、1609年以降薩摩の領有権支配に伴って薩摩地方へと伝わったことでさつまいもと呼ばれ、その後主に九州地方で栽培されるようになったとされる。


その後、江戸時代初期から中期の頃の度重なる飢饉によって★救荒作物として注目され、西南暖地を中心としながら全国に普及していった。


第二次世界大戦後の日本では大増産期(昭和30年の700万トン)があったが、その後、食生活が安定化するとともにその生産は激減し、一部の貧困家庭だけが主食作物として使用した。

ピーク時の昭和30年から18年後、子どもの頃の我が家の主食はサツマイモであった。

給食もない小学校で、サツマイモだけの弁当を教室で食べることがなかなかできなかった、そんな思いをしたが同年代でもそのような経験をした人は少ないだろう。

いかに貧困家庭だったかがわかると思う。



★救荒(きゅうこう)作物とは、一般の作物が不良で凶作の時にも生育して収穫できる作物で、蕎麦、さつまいも、しじゃがいも、ひえなど天候異変に強く、荒れ地でも育成可能なもので、また「救荒植物」と言う場合は、通常は食用にしないが、飢饉の際食用にする野生の植物を指す。

農作物の育成技術が貧しかった昔々は、農作物か十分に実らず、食物が欠乏して人々が飢え苦しむ時代があった。


日本では、昔ほどの生産量はないが、関東や
南九州の畑作地域においては、地場産業の振興になくてはならない重要な作物となっている。


茨城県は全国第二位のサツマイモの産地で、紅あずま、紅まさりなどが知られる。


「紅こがね」はJAなめがた(行方)しおさいのオリジナルブランドで、JAなめがたしおさいが出荷した紅あずまだけにこの商品名を使用することができます。


9ヵ月間も熟成された「熟成紅こがね」は糖度が非常に高く、焼き芋にすると甘味が更に増し、しっとりとした口当たりで、冷めても柔らかで濃厚風味を味わうことができると言う。

たくさんの芋を頂いたので、芋けんぴを作ってみた。

安納芋は通販で買ったので、焼き芋にした残りで芋けんぴを作ってみました。

基本的に安納芋は芋けんぴには向いていない。

しっとり系はカリッとしませんね。


◉さつまいも関連ブログ
大飢饉を救ったのはさつまいも No,578









2021/11/01

桜の管理の必要性 No,571

 桜樹

一般家庭で桜の木を植えることは少ないことですが、地方自治体の殆どの場所には花見会場として、桜の木を植樹している。


自治体によって桜の木の管理のあり方も様々で、多かれ少なかれ適切な管理をしている自治体は少ないのではないかと思う。


主に、春先までの管理を重点に行っているかで、桜の開花や花数にも影響する。




キノコが発生し、枯れてしまっている幹の部分であるが、全く手入れがなされていない花見会場にある桜の木である。


ならたけ病に侵された幹の部分は、数年間全く手入れがなされていない事が伺える。


主に樹幹の地際部や根に発生し、若木では病気が急速に進行して全身が萎ちょう枯死に至るが、成木でははじめ一年から二年生枝梢の枯死が起こり、数年かかって次第に衰弱して行き、ついには全身が枯死にいたる。

写真の桜の木はまだ若いが、病気の進行も早く主幹がほとんど枯れてしまっている。


病原菌は担子菌類に属する糸状菌の一種であり、サクラ類のほか多数の広葉樹、針葉樹、果樹などを侵して被害を及ぼす多犯性の菌である。


日本をはじめ、韓国、中国などアジアのほか、北米、南米、欧州など熱帯から亜熱帯まで南北両半球の世界各地に広く分布する🍄キノコである。


防除法

各地の桜にならたけ病の被害が多いが、これには桜の根部外科手術によって治療を図る手段が望ましい。


それは、被害樹木の根の周囲の土を掘り上げ、病患部及び羅病根をすべて切除します。


切り口にはチオファネートメチル塗布剤を塗り、掘り上げた土壌にバーク堆肥を加えてよく混ぜ、埋め戻します。

対処樹木は、樹勢が回復し根が発達し終えるまで支柱を添えてあげます。


また、枯死してしまった樹木の跡地には、クロルピクリン剤、ダゾメット剤などのガスくん蒸剤による土壌消毒を行う。



桜切るバカ、梅切らぬ馬鹿


そんなことわざがあるが、切った後に切り口を保護しないで枯らしてしまう事が原因である。

木にも強い、弱いがあるので、その木の特性にあった保護をしてやらなければいけない。

手入れもしないで枯らしてしまうのだら、切る以前の問題である。




枝を切る場合、切る位置も大切です。

どこで切ってもよいと言うような樹木もありますが、ほとんどが切る位置があります。


我が家の吉野桜も一枝剪定しました。
管理が大変なので樹高を低くするためです。

健全な枝ですが、間引く必要もあった枝なので切り取りました。









2021/10/28

山本懸蔵記念碑碑文 No,570


 総選挙の度に思う。

暗黒の歴史を繰り返す勢力に政治を委ねてはならないということを、、


暗黒政治の下で、不当に命を奪われた者たちの事を忘れないために、遺さなければならない闘争の歴史がある。



         「2021.10.28撮影」


山本懸蔵記念碑碑文

山本懸蔵は、1895年、明治28年2月20日茨城県鹿島郡矢田部村押上に生まれた。


小学校を終えた後上京して労働者となり、1914年頃から労働運動に参加し、科学的社会主義に接近した。


米騒動で投獄された後、労働運動に専念し、日立、足尾、神戸など各地の争議を指導した。


1922年7月に日本共産党が創立されると、山本はただちに入党し、逮捕、投獄に屈せず、精力的に活動し、外国に渡って国際連帯の活動を活発におこなった。


1925年結成の日本労働組合評議会の代表的な指導者となり1927年(昭和2年)には静岡県での衆議院補選に、翌年の最初の普通選挙に北海道でともに労農党から立候補した。


同年、日本共産党中央委員に選任された。

1928年、ソ連に渡り、プロフィンテルンおよびコミンテルンで活動した。


★プロフィンテルン及びコミンテルンとは、1919年から1943年まで存在した国際組織で
コミンテルンの指導下に結成された左翼系労働組合の国際組織のこと


日本の階級的労働組合運動の闘争を援助し、日本共産党の方針「32年テーゼ」の作成に参加し、1936年には「日本共産主義者への手紙」を発表し、人民戦線を結成して日本の暗黒政治と侵略戦争に反対してたたかうことをよびかけた。


★32年テーゼとは、1932年5月コミンテルンで決定された「日本における情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」の通称。

赤旗=初刊当時は「せっき」と言った。
1932年7月10日特別号に発表された。

テーゼとは今日の綱領的文書に相当する(定立、言明)


しかし、1937年11月スパイ容疑と言うことで根拠なく逮捕され、本人の否定にも関わらず、1939年3月10日銃殺刑の判決を受け、即日モスクワで処刑された。


44歳

党中央委員会は、この報に接し断固抗議。


1956年、ソ連当局によって無実として名誉回復された。


妻、関マツは、1924年の結婚以来、終始懸蔵の活動を大きく援助し、1968年8月17日モスクワで死去した。


山本懸蔵の名は、「山懸」という愛称とともに、日本の社会進歩の事業の歴史に長く記録されるであろう。



山本懸蔵記念碑建設委員会

1973年10月7日建


1992年5月、山本懸蔵が派遣され活動したソ連邦の権利、義務を引き継いだロシア連邦政府からの山本懸蔵死亡年月日の正式通報があったので、1993年12月に改造した。

1993年12月吉日改

日本共産党中央委員会




◉山本懸蔵関連記事
No,224
山本懸蔵の憧れた時代へ特別編

No,400-1
山本懸蔵の命日









2021/10/27

気候変動を招いた資本主義産業 No,569

 気候変動、地球温暖化

今、世界各国で地球温暖化が問題となっているが、各国が提出した温室効果ガスの排出削減目標を集計した報告書が25日、公表されました。


報告書では、現在段階の目標を達成しても2030年の世界の温室効果ガス排出量が「10年比16%」増加すると指摘している。

各国、地域がより強力な目標を設定しない限り、今世紀末までに世界の気温が2.7度上昇することになると警告しています。


報告書はパリ協定「地球温暖化対策の国際枠組み」のすべての締約国192ヵ国、地域の目標を集計、その内目標を新規提出、更新した国は143ヵ国。

中国に次ぐ排出量を記録する欧州連合(EU)と、3位である米国が新たな目標を設定しました。


一方、中国と4位のインドは古い目標のままで設定を更新していません。


また、多くの途上国の削減目標は富裕国から資金援助と技術移転が前提となっている。


2030年までに温室効果ガスの「10年比で45%削減」を揚げる国連の目標実現については、産業革命以来、CO2を長期に渡って排出してきた先進国に特別な責任があります。


しかし、日本の削減目標は46%(13年比)であり、10年比換算では42%に過ぎません。


50~60%の削減を目標とする世界の主要国に比べても、極めて低いものです。


この目標に消極的な日本政府の姿勢に対して、環境団体は世界第5位の大規模排出国としての責任に背を向けているとし、国際社会からも批判を受けると批判しています。


現在日本では総選挙の真っ只中ですが、この気候変動、地球温暖化に対しての公約を揚げている政党は日本共産党以外に無いようである。


本来なら、政権与党が掲げなければならない公約ではないでしょうか。



地球温暖化に対しても深く取り組んでいく政府が今、求められています。

深く考える必要がある重要な問題として、追求しなければならない時にきているのです。


地球上で起こる様々な大気現象は、太陽から受け取ったエネルギーを源としています。


地球が太陽から受け取ったエネルギーは、大気圏だけではなく様々な形態を取りながら、最終的には赤外放射として宇宙空間に戻され、ほぼ安定した地球のエネルギー収支が維持されています。


このようなエネルギーの流れに関与する地球の全システムを気候系と呼び、また大気の平均状態を気候と呼びます。


気候は様々な要因になり、様々な時間スケールで変動しています。


この気候変動の要因には、自然と人為的な要因があります。



現代社会で起きている気候変動は人為的な要因です。

その要因には、二酸化炭素などの温室効果ガス(気体)の増加やエアロゾル(空気中に漂う微細な粒子のこと)の増加、森林破壊などがあります。



この温室効果ガスの増加が地上気温を上昇させます。


この事が地球温暖化の原因となっている。

地球温暖化により、北陸の米が美味しくなったと発言した国会議員がいるようだが、とんでもない発言である。


記録のために記しますが、その発言者は「麻生太郎自民党国会議員」です。


問題になり得るような発言は如何なものかと思う。


地上気温が上昇した結果、森林破壊などの影響による植生の変化は、水の循環や地球表面の日射の反射量に影響を及ぼしている。



産業革命(1760~1840年)後、さらに大量の石油や石炭などの化石燃料の消費による、大気中の二酸化炭素濃度の増加による地球温暖化が拡大し続けた。


産業革命とは、18世紀半ばから19世紀にかけて起こった一連の産業の変革と石炭利用によるエネルギーの革命、それに伴う社会構造の変革のことである。


気候変動、地球温暖化の要因を招いたのは先進国とされる国々の過剰な、開発、生産などに伴って生じた人為的な要因であり、先進国によって気候変動はもたらされたと言っても過言ではないだろう。


その事は紛れもない事実であり、また資本主義社会の発展が招いたことだと言えるだろう。


自然環境保護を唱える一方で、自然環境を破壊していると言う矛盾がある。

気候変動は今、先進国や途上国を問わず、世界中の人々の安全を脅かす、大問題となっているのです。



関連記事No,547
資本主義社会がもたらした地球環境破壊







2021/10/20

剪定作業NO,568

 マキの木剪定

最近はお家に庭を作らない所も多くなっていると思うが、庭を造れる広さがあっても庭木を植える事を好まない方々も多い。


その理由も様々だろう。

代々引き継がれた樹木であっても、庭木の手入れをすることも少なくなって、毎年のように剪定していた庭木も放置状態になることも少なくない。


2年前に剪定したお宅より、剪定作業の依頼がきた。


 以前から放置状態の庭木も今回は剪定したが、幹には苔が生えシダ植物が寄生していた。

そのような枝は枯死する状態になりつつあった。


      「原形がない仕立てのマキ」


      「約三時間でこの姿に剪定」


二年前に剪定したマキの木




2年前は徒長枝が無数に立ち上がって、形も崩れていた。


今回は枯れ枝と透かし剪定を中心にしながら形を整えました。



樹上に登って剪定作業。
全体の樹形が分かりにくいため何度も確認が必要。




このマキも2年前に剪定したもので、形もすでに崩れている。

これほどだと樹形もまだ整えやすい。




今回はこんな感じで剪定終了です。






2021/10/19

巨樹の村の八村杉  No,567

 追討使(者)が植えた杉 八村杉

九州の巨樹の村で知られる椎葉村は、宮崎県東臼杵郡の秘境地。

大寒の頃、椎葉村大河内の森は氷の森となり、落差30mの滝全体から広い滝つぼ全てが凍りついた「御神の滝」はまるで別世界です。

この地はまた、平家にまつわる数多くの伝説が語り継がれる地でもある。

九州山地の中心に位置する椎葉村は、現代においても平家と言えば椎葉村ともいわれる程、平家の落人集落として全国にその名を知られている。

交通の便がよくなった現在でも岐阜の白川郷や徳島の祖谷とともに、日本三大秘境と呼ばれていることからも、当時はいかに奥深い山谷の地であったかが想像できるだろう。


1185年(文治元)3月、壇ノ浦の合戦に敗れた平家の人々は、五ケ浦町鞍岡を経て霧立越(きつたちごし)を抜けて椎葉村へ逃げてきました。


椎葉村の北部、十根川地区にも平家の残党が身を隠す所であると知った源氏は、那須大八郎宗久に追討の命令を出し、そしてこの地にやって来た大八郎だったが、平家の人々が焼き畑をしながら木の実や草の根をかじり、細々と暮らしているありさまも目のあたりにして、「どうしてこの人たちを殺すことができようか」と深く哀れみ、「平家の残党は残らず追討を終えた」と嘘の報告を鎌倉に伝え、自ら平家の落人と共に十根川の集落に陣屋を造って暮らす事となった。


この際、陣屋から100㍍ほど離れた場所に大八郎自ら植えた杉が、現在の八村杉(やむらすぎ)であると言われている。





八村杉は別称「十根の杉」といい、1871(明治4)年まで十根川神社が八村大明神と呼ばれていたことから、八村杉と呼ぶようになったとされる。


かつては人が出入りできる程の空洞があったが、生長により現在ではほとんど痕跡を見ることが出来なくなっている。

八村杉は生長に伴い、根元を埋め立てて行ったようで、本来であれば樹高も幹周りももっと大きく、日本最大級の杉であっただろうと想像できます。


秘境の自然環境の中で生き続けてきた八村杉は、物言わぬ歴史を知る唯一の生き証人なのかも知れません。


八村杉

樹齢800年
国指定天然記念物

所在地=宮崎県東臼杵郡椎葉村下福良
十根川神社







2021/10/17

戦火を逃れた首里金城の大赤木 No,566

 アカギ トウダイグサ科アカギ属

「赤木」

アカギは材の色が赤褐色なのでこの名がある。

高さが20㍍以上になる雌雄異株の半落葉高木で、沖縄では日除けや街路樹として使われることもある。


半常緑性で冬の一時期葉が少なくなるが、3月頃一斉に芽吹いてくる。


花の時期とも重なるため、若葉が開く頃は特に華やかである。

萼(がく)が花弁のように見えるが花弁はない。



         「アカギ」


首里金城の大アカギ

首里金城(しゅりきんじょう)町は、かつて琉球王国の城下町で「日本の道」100選にも選ばた琉球石灰岩で作られた『石畳の道』が現在も残る情緒豊かな町である。


首里城周辺の高台に位置することから、見晴らしは那覇市でも一番の土地と言える場所です。

また、歴史的にも古い町として先祖代々、脈々と歴史が受け継がれている地でもある。

その石畳の道の途中に、大アカギへの行き先を示す小さな道標がある。

道標に従い石畳から分かれて民家の間を進むと、大アカギのある森に辿り着く。

うっそうと茂り緑が残された不思議な場所のようにも感じるが、実はここだけ戦火から焼け残った場所なのだと言う。


古くは首里城内にも数多くアカギの巨木は生育していました。

しかし、1945年の戦時中、沖縄戦の際に艦砲射撃(軍艦が搭載する大砲)を受け、多くの森がほとんど焼失してしまいましたが、この場所だけは奇跡的に6本のアカギが残ったのだと言われています。

残った森の中のアカギは、奥に生育するのが一番大きく迫力がある。

昼間でも暗い森の中の主であるかのように存在している。

暖地の巨樹らしく根元にはオオタニワタリなどが着生し、いかにも南国独特の湿潤な雰囲気のある森である。


         「オオタニワタリ」


オオタニワタリは、日本南部から台湾の森林内の樹木や岩などに着生するシダ植物である。
単にタニワタリとも言う。


大アカギの樹齢は200〜300年前後と言われており、中でも古木はシマオオタニワタリやクワズイモなどの植物が着生している。



      「首里金城の大アカギ」


この場所は、沖縄に数多く存在する「御嶽=うたき」と呼ばれる祭祀=さいし(神や先祖を祀ること)祭事、祭典、祭りなどを行う場所で、内金城嶽(うちかなぐすくたき)と呼ばれています。

普段は静かなこの森も、毎年旧暦の6月から15日には賑わうと言われています。

1年でこの日だけは、アカギに祭られた祠(ほこら)に神が降りてくると言われていて、この日には島を離れていた人々が集まって来るのです。


地元では昔から神聖な場所であり、アカギは御神木でもあったのです。


沖縄県に多く存在する聖域の中では比較的アクセスが良く、近年ではパワースポットとしても知られている場所である。


首里金城の大アカギ

樹齢300年以上
国指定天然記念物

所在地=沖縄県那覇市首里金城町3丁目








2021/10/15

オキナワウラジロガシ伐採危機 No,565-1

 石垣島のマザーツリー

オキナワウラジロガシ

緊急提言

首里城再建のため、石垣島に自生する天然巨木5本が伐採まで1ヶ月余りという危機に直面している。


その昔、オキナワウラジロガシは首里城築城の際に、築城材として切り出された。


その時の生き残りが、現存のオキナワウラジロガシであるとの言い伝えがある。

オキナワウラジロガシは沖縄の銘木100選に認定されている。

日本に自生するドングリの木としては最大級である。

別名=ヤエヤマガシ、リュウキュウガシ、リュウキュウウラジロガシと呼ばれ、日本固有種である。

巨樹巨木群の存在は自然環境維持には欠かせない、大切なものです。

野鳥や動物たちの生活環境を助けています。

また、海の環境保護にも重要な役目をもち、サンゴ礁の海を護っています。

人類は壊すだけで自然環境を作る事は出来ないという事を、今一度肝に銘じなければならない!

それはいつの時代でも重要な事である。



     「オキナワウラジロガシの巨木」


キャンペーン、石垣島のマザーツリー

↑キャンペーンクリックで詳細

(オキナワウラジロガシ)を助けてくだい。


その後の経過として(10月28日)報告によると
賛同総数が26.000人を超え、取り敢えず12月上旬の伐採は無いようです。


どれくらい伐採が延期されるか不明であり、総選挙の結果次第で伐採事業が早まらないかと、住民は敏感になっている様である。


首里城宮殿の設計変更まで話を持っていきたいと考えてるとのことです。

この伐採計画のほかに石垣島では、ユニマット社のホテル、ゴルフ場建設、JTBによる固定式浮島による計画があり、石垣島の未来を心配する声が数多く寄せられていると言う。


島の自然破壊は限界に来ているとし、石垣市民有志は次のアクションに向けて協議を重ねている。


引き続き、皆さんが石垣島に関心を持っていただく事を願っているとの、マザーツリーを守る会代表の会田昌平さんのコメントです。

さらに賛同を集めている。






ひんぷんガジュマル No,565

 ひんぷんガジュマル

クワ科イチジク属 「榕樹」

ひんぷんガジュマルは、沖縄県名護市の商店街の入口にたたずむ、推定樹齢300年以上の天然記念物のガジュマルの木である。




ガジュマルはクワ科の高さ10m以上になる常緑高木で、枝から多数の気根を垂らす特徴のある木で、気根は地面に着くと支柱根となって木を支えます。


他の樹上に着生したガジュマルが、気根を寄主した幹に絡ませながら生育し、締め付けて枯死させることから「締め殺し」の木とも言われる。


屋久島以南の亜熱帯から熱帯にかけて広く分布し、沖縄では屋敷木、防風林、防潮林、緑陰樹、公園樹などとして広く植栽されている樹種である。


カンボジアのアンコール遺跡などで見られる、根が遺跡の石に絡みつく写真などが有名ですが、これもガジュマルの近縁種です。


ひんぷんガジュマルもかつては「リュウキュウマツ」に寄生し成長したもので、そのリュウキュウマツは絞め殺されてすでに存在していません。

名護大通りの幸地川に架かる「あなだ橋」のたもと、道の中心部にひんぷんガジュマルは生育し、ガジュマルを中心としたロータリー状の道路となっているが、これはガジュマルを避けるように後から道路が作られたものだと言えるだろう。


ひんぷんとは、屋敷の正門と母屋との間に設けられた塀のことを言う。

樹下に置かれた石碑の三府龍脈碑(さんぷりゅうみゃくひ)の別名「ヒンプンシー」に由来する。


外から屋敷内が見えないようにする役目があると同時に、悪霊や災難が入り込まないようにするという意味もある。

名護の町に災難が入り込まないよう、地元住民の信仰の対象となっている。


また、ガジュマルの木には「キジムナー」と言ういたずらの大好きな伝説の妖怪(精霊)が12匹住むと信じられていて、道路端には『がじゅまるがんた』と言うキジムナーをイメージして作られたキャラクターが立っている。



一般的にはガジュマルの古木に住むとされる精霊であるが、精魔、セーマグ、ブナンガー、ブナガイ、ミチバタ、ハンダンミー、アカガンダーなど様々な呼び方があり、これは出会える場所などによって呼び方が違うとされている。



    「キジムナーと言う精霊」

ひんぷんガジュマルは、2002年(平成14年)の台風16号の強風によって樹が南西方向に傾いてしまい、倒木の危険性がある被害を受けたが、その後対策工事が行われ維持された。

同時に大規模な枝の剪定作業が行なわれ、約940㌔もの枝がせん定された。

その枝は市内の小・中学校に植樹され、名護博物館にて挿し木にして育てられた苗木も、希望者に配られることになった。


かつての広大な樹幹は見られなくなったが、今でも元気な姿で気根を垂らして、大きな木陰を作り出している。




ひんぷんガジュマル

推定樹齢300年以上

沖縄県指定天然記念物1956年(昭和31年)10月19日指定

国指定天然記念物1997年(平成9年)9月2日指定

所在地=沖縄県名護市大東1丁目1









2021/10/13

尾八重の一本杉 No,564

 尾八重(おはえ)の一本杉

吹き荒れる尾根に育ち生きてきた杉

一本杉は尾八重集落の奥、横尾峠から続く尾根伝いに位置し、ちょうど旧街道が尾根を越える。

まさに峠の頂上部分に一本杉は生長している杉の名木である。

その生命力は計り知れないほどの強さである。

高地の尾根上に当たるため、四方から季節風が吹き荒れてまともに杉を、傷めつけているかの様である。

生育環境が過酷すぎる条件下に育っていると言える。

やせ地の尾根に育つため根元は固い岩盤で、根を深く伸ばすことができないため、樹高が伸びずに低い幹の部分に数多くの枝を伸ばす。

自らその生長の仕方を選んだようで、太いコブのような枝が集中して伸びる様子は異様である。


真っ直ぐに伸びる本来の杉の姿とは程遠い、杉としては珍しい樹形そのものである。

この尾根の厳しい自然条件が杉の運命と生き方を決めたと言えるだろう。




一本杉の根元を横切る山道は昔、南郷村に至る交通の要路であったが、日本経済成長に伴い、自動車による移動手段とり、次第に峠道の存在が忘れ去られて行った。


かつては山の神として信仰された杉であったことから、峠を旅する人々たちへ安らぎの場所を与えていたに違いありません。


400年以上の長きに渡り、尾八重の暮らしや旅人の安全を見守ってきたことだろう。


今では、ほとんど人の通ることのない峠となっているが、いまだに尾八重集落の守り神と峠の番人として存在しているのだと思う。



宮崎県西都市尾八重地区は、西都市北西部の深い山中にあり、一ッ瀬川の支流、尾八重川上流の集落。

山の習わしを色濃く残す尾八重神楽と有楽椿が咲き誇る地として知られ、かつて日本に数多く存在した山里の風情を漂わせる集落である。


尾八重の一本杉
推定樹齢450年以上

西都市指定天然記念物(昭和46年6月10日)

所在地=宮崎県西都市尾八重







2021/10/08

冬から春先のバラ庭  No,563

 バラの弱点を他の植物で補う

わずかな品種を除けば、バラはその多くが落葉性であるので、バラを中心とした庭では冬から春先まで、ガランとした寒々しい庭に見えます。


秋の花が終わってから2月のせん定までは、樹形の乱れたままの姿で過ごすことになり、庭全体が雑然としたままです。


このような状態を避けるためにも、弱いせん定を行い乱れた印象を感じないようにします。


また、樹木や草花との組み合わせなど、バラの冬の状態を想定して、樹木を配植することも必要です。


12月から春まで咲く花木などの植栽で、バラにかわって庭の景観を良くします。

草花との組み合わせでは、ひとつのバラの株元近くに常緑の宿根草を、冬に備えて植え込みます。


一般の庭木もバラも大きくして、花をたくさん咲かせれば良いわけではなく、庭全体や構造物とのバランスを整える必要があります。


適正な大きさと樹形を維持するせん定が重要です。



冬にバラの庭を補う常緑宿根草

アガパンサス ユリ科

花期=4月〜7月
植え付け時期=3月〜5月、9月〜10月

明るい緑の葉が密生し、花期もバラに合わせられる。
小型種のピーターパンなどが使いやすい。




クリスマスローズ キンポウゲ科

花期=12月〜4月
植え付け時期=10月

大型の葉で冬の緑として存在感があり、花期が長く花色も多彩。




シロタエギク キク科

花期=6月〜9月
植え付け時期=10月〜11月

シルバーリーフプランツ、銀葉植物の代表種
バラの開花期には濃い色を浮き立たせる。




宿根カスミソウ ナデシコ科

花期=6月〜7月
植え付け時期=3月〜4月、10月〜11月

冬の間は多少ボリュームに欠けるが、花期には切り花としてバラと合わせるのが定番。




宿根ダイアンサス ナデシコ科

花期=3月〜7月、9月〜11月
植え付け時期=4月〜5月、9月〜10月

バラ花壇の縁取りには「ライオンロック」などの小型のものが足元を引き締めてくれる。




ゼラニウム フウロソウ科

花期=3月〜11月
植え付け時期=4月〜6月、9月〜10月

秋に切り戻して低く仕立てておく。
暖地では少し湿気に弱いが「アイビーゼラニウム」が合わせやすい。




ブルーデージー キク科

花期=3月〜6月、9月〜10月
植え付け時期=2月〜4月

冬の間も葉の緑のボリューム感は十分
花期にはブルーの花がバラを補う。

寄植えやハンキングバスケットの材料にも最適。




ベルゲニア ユキノシタ科

花期=2月〜5月
植え付け時期=3月〜4月、9月〜10月

大型のしゃもじ形の葉が広がり裸地を覆う。
バラの小さな葉との対比も大きい。




ペンステモン、ジキタリス ゴマノハグサ科

花期=6月〜9月
植え付け時期=3月〜5月、9月〜11月

「ハスカーレッド」は、赤茶色のツヤのある葉がロゼット状に広がり観賞価値も高い。




ヒューケラ ユキノシタ科

花期=5月〜7月
植え付け時期=3月〜4月、9月下旬〜11月上旬

多彩な葉色の品種があるが、花期のバラの花色を考慮して品種を選ぶ。




シバザクラ ハナシノブ科

花期=3月〜5月
植え付け時期=3月〜4月

冬からバラの開花まで、グランドカバーとして株元の乾燥を防ぎ早春の花も美しい。

芝生代わりに庭に植えたり、石垣などに利用する。




ユリオプスデージー キク科

花期=11月〜6月
植え付け時期=10月〜4月

バラの終わる晩秋から春まで咲き続け、冬の庭を彩る。
葉の緑も低木並みのボリュームがある。




ヤブラン キジカクシ科

花期=8月〜10月
植え付け時期=3月〜6月、9月〜11月

濃い緑の原種のほか、黄斑種、白斑種があり、丈夫。




マーガレット キク科

花期=10月〜6月
植え付け時期=3月〜5月

暖地でのみ植栽可、春早くから咲き、茎が木質化するのでその前に切り戻す。

9月頃に草丈の半分ほどを切り戻しすれば秋にまた開花する。




宿根スターチス イソマツ科

花期=6月〜11月
植え付け時期=4月〜5月

葉小さいもの、大きいものがあり、葉色は緑から青緑。

花期にはバラに合わせる切り花に利用する。
ドライフラワーの素材としても利用され、乾燥させても花色があせない。





ライズイヤー シソ科 (ハーブ)

花期=5月〜7月
植え付け時期=3月〜5月、9月〜10月

明るい緑の葉が密生する。
花期もバラに合わせられる。
小型種のものが使いやすい。





クリービングタイム シソ科

花期=3月〜6月
植え付け時期=3月〜5月

草丈3〜5㎝で冬の間も緑のじゅうたんを作る。
花期にはピンクのじゅうたんに変わる。












2021/10/07

バラの手入れ10月 No,562

 バラの手入れ

10月頃になると気温もかなり下がって、快適な気候となりますが、上旬は秋の長雨の時期です。

バラは中旬には咲き始めます。

春と違って気温が低いので、花色も一段と冴えゆっくり開いて花も長持ちします。




①咲き柄摘み

春ほど忙しくありませんが、下旬には咲き柄摘みを始めます。

②病害虫の防除

秋の開花期の最中でも、薬剤の定期散布は9月に準じて実施しますが、ハダニ対策は不要になります。


下旬には地域によってカイガラムシが発生し、白く目立ってきますので、殺虫剤のスプラサイドなど効果のあるものに切り替えます。


③施肥

庭植えのものには与える必要はありません。

鉢植えの置き肥と液肥は上旬で打ち切ります。





2021/10/06

キイチゴ No,561

 キイチゴ バラ科

木苺
主に低木で茎は直立するもの、這うものなど多様で普通トゲがある。

地上部は普通2年で枯れ、1年目の茎には葉だけがつく。

2年目に横に枝を出して開花結実し、そのあと枯死するものが多い。

果実は、果床(花床)の上に小さな核果が多数集まった集合果で「キイチゴ状果」と呼ばれる。


北半球の温帯を中心に数百種が知られ、果樹として栽培されているものも多くある中で雑種が多い。

日本では山野に自生しているものもある。




栽培されているのは輸入種のラズベリー、ブラックベリー、デューベリーの三種で、庭植えでも樹高1〜1.5mで80〜100果、鉢植えは6〜7号鉢で40〜50果が収穫の目安です。


栽培適地(生育期4月〜10月)


種類によって適温が違い、ラズベリーは耐寒性が強く、夏も涼しい気候を好みます。

ブラックベリー、デューベリーはやや耐寒性に劣りますが、関東地方までなら庭植えで十分育ちます。

日当たりがよく、土層が深い風当たりの弱い場所が適しています。

鉢植えは赤玉土6、腐葉土3、川砂1の混合土を用いて、植え付け時に根を乾かさないように注意します。


春と秋は日当たりの良い場所へ置きますが、西日は避けるようにします。


肥料

庭植えは毎年1月から2月、配合肥料を根周りに100gばら撒き、軽く土壌にすき込んでおきます。

鉢植えは3月に玉肥を3〜4個置肥します。


病害虫対策

3月の初芽前に、石灰硫黄合剤20倍液を散布して病気予防をします。


せん定(1月、2月)

結実した枝は収穫後茎部から切り取り、翌年結果枝になる新梢の通風、日当たりを良くしてやります。


庭植え、垣根仕立て



✪ブラックベリー

側枝は5〜6芽で先端を切り、混み合った枝も切り取って全体に日が良く当たるようにします。

結果母枝が多過ぎる時は、間引きせん定し、本数を制限する。



✬デューベリー

全体にバランスよく誘引し、針金で止めてる。

広い面積を使う時は、本数を多くするか、翌年以降発生してくるシュートを切り取らずに誘引していく。


鉢植え、あんどん仕立て



★植え込み

生育が早いので、すぐにあんどんを仕立てます。

鉢の高さの2.5〜3倍の高さを目安にします。



✬夏のせん定

収穫後の枝は元から切り取ります。
根元、地下茎から伸びるひこばえ(サッカー)は切り取るが、3年に一本ずつ残して主枝を更新します。


あんどんから出る枝は切り詰め、結実する側枝は3〜4節ぐらいにせん定します。






2021/10/05

ムベつる性植物 No,560

 ムベ アケビ科

郁子、野木瓜 別名=トキワアケビ
不老長寿の果実と言われる。

朝廷に献上した大贄が語源でオオニエ⇒オオムベ⇒ウムベ⇒ウベ⇒ムベと転訛したものとされる。

大贄(おおにえ)とは、朝廷に献上するその土地の産物を言う。

果実が昔は貴重な山の幸であったことが伺える。

また、アケビに似て常緑なので『トキワアケビ』の別名もある。


       「8月8日撮影」

❉ムベの歴史、名前由来

ムベの歴史は、天智天皇(てんぢてんのう=西暦626〜672年)が狩猟で蒲生野(がもうの、現在の滋賀県東近江地域)を訪れた際に、長命な老夫婦に出会い、長寿の秘訣を訪ねたところ、これを食べているからですと老夫婦が手渡したムベを食べ、「むべなるかな」もっともだとおっしゃったことが由来とされています。

ムベは、皇室献上品のひとつとされ、天智天皇ゆかりの霊果とも呼ばれています。

ムベの実は現在でも皇室に献上されています。

ムベは古くから知られていた果実で、918年頃に書かれた「本草和名」にムベの名が初めて出てきます。

本草和名(ほんぞうわみょう)とは、平安前期にできた日本現存最古の薬物辞典である。

大医博士=深根輔仁(ふかねすけひろ)著

自生は暖地の山地の林縁や原野などに生える。

関西以西が自生地の暖地性植物ですが、耐寒性が強いので北海道を除く全国で庭植えができる。

熟してもアケビのように果実が口を開かないのが特徴。

ムベは常緑樹で果実は開かない、アケビは落葉樹で果実が開く。


雌雄同株で、一本の枝に両性の花が4月頃に咲き、9月下旬から11月頃にかけて暗紅色で大形の果実が結実します。


   

   「ムベの花、4月4日撮影」


果肉は白く甘味があり生食できます。




昔から縁起木として知られ、長命、延寿、富貴を表す樹木とされています。

葉は最初単葉ですが、成長に連れ3枚、5枚、7枚と増えていき、最後に結実することから、七五三の祝い木とされています。

茎や根は利尿剤や強心剤として利用される。





栽培適地

日当たり、水はけの良い場所が適地で、土層が深い肥沃地を好みます。

鉢植えは赤玉土5、腐葉土4、川砂1の混合土に植え、日当たりと風通しの良い場所へ置いて管理します。

浅根性なので盆栽仕立てにもできます。


肥料

1月から2月、根周りに配合肥料を100gぐらい薄く撒き、浅く土壌にすき込んでおきます。

鉢植えは、3月に玉肥を3〜4個置肥します。

収穫時期は9月頃から11月頃

せん定

棚仕立てや垣根仕立てなどにして、毎年混み過ぎた枝を間引きせん定し、古い枝は切り詰めて新しい枝を出させます。

生長の良い新梢は年に15mも伸びるので、長くなり過ぎたら6月から7月にもう一度、軽く切り詰めせん定を行います。


鉢植えは模様木仕立てにしますが、切り詰めせん定で樹形を作り、成木になったら毎年根を切り詰めて、短枝を多く出させるようにすると開花結実します。


病害虫対策

葉表や葉脈などに黒点のできるさび病が発生します。

春と秋にダイセン水和剤500倍液を散布して予防します。

混み合って風通しが悪くなると、カイガラムシが発生します。

見つけ次第ヘラなどで剥がして駆除、混み合った枝を間引きせん定し、風通しを良くします。


発生量が多い場合では、冬期に石灰硫黄合剤を散布して駆除します。