緑のお医者の徒然植物記

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2021/10/28

山本懸蔵記念碑碑文 No,570


 総選挙の度に思う。

暗黒の歴史を繰り返す勢力に政治を委ねてはならないということを、、


暗黒政治の下で、不当に命を奪われた者たちの事を忘れないために、遺さなければならない闘争の歴史がある。



         「2021.10.28撮影」


山本懸蔵記念碑碑文

山本懸蔵は、1895年、明治28年2月20日茨城県鹿島郡矢田部村押上に生まれた。


小学校を終えた後上京して労働者となり、1914年頃から労働運動に参加し、科学的社会主義に接近した。


米騒動で投獄された後、労働運動に専念し、日立、足尾、神戸など各地の争議を指導した。


1922年7月に日本共産党が創立されると、山本はただちに入党し、逮捕、投獄に屈せず、精力的に活動し、外国に渡って国際連帯の活動を活発におこなった。


1925年結成の日本労働組合評議会の代表的な指導者となり1927年(昭和2年)には静岡県での衆議院補選に、翌年の最初の普通選挙に北海道でともに労農党から立候補した。


同年、日本共産党中央委員に選任された。

1928年、ソ連に渡り、プロフィンテルンおよびコミンテルンで活動した。


★プロフィンテルン及びコミンテルンとは、1919年から1943年まで存在した国際組織で
コミンテルンの指導下に結成された左翼系労働組合の国際組織のこと


日本の階級的労働組合運動の闘争を援助し、日本共産党の方針「32年テーゼ」の作成に参加し、1936年には「日本共産主義者への手紙」を発表し、人民戦線を結成して日本の暗黒政治と侵略戦争に反対してたたかうことをよびかけた。


★32年テーゼとは、1932年5月コミンテルンで決定された「日本における情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」の通称。

赤旗=初刊当時は「せっき」と言った。
1932年7月10日特別号に発表された。

テーゼとは今日の綱領的文書に相当する(定立、言明)


しかし、1937年11月スパイ容疑と言うことで根拠なく逮捕され、本人の否定にも関わらず、1939年3月10日銃殺刑の判決を受け、即日モスクワで処刑された。


44歳

党中央委員会は、この報に接し断固抗議。


1956年、ソ連当局によって無実として名誉回復された。


妻、関マツは、1924年の結婚以来、終始懸蔵の活動を大きく援助し、1968年8月17日モスクワで死去した。


山本懸蔵の名は、「山懸」という愛称とともに、日本の社会進歩の事業の歴史に長く記録されるであろう。



山本懸蔵記念碑建設委員会

1973年10月7日建


1992年5月、山本懸蔵が派遣され活動したソ連邦の権利、義務を引き継いだロシア連邦政府からの山本懸蔵死亡年月日の正式通報があったので、1993年12月に改造した。

1993年12月吉日改

日本共産党中央委員会




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