81年の時を超えて確認された対馬丸
太平洋戦争中の昭和19年8月22日の夜、鹿児島県悪石島沖(トカラ列島)で米潜水艦の魚雷攻撃によって撃沈された(翌日未明に沈没)学童疎開船「対馬丸」の海底を調査をした結果、対馬丸の船体を確認したと内閣府が23日に発表しました。
対馬丸では学童を含め、1500人近くが犠牲になっており、政府は遺品回収や戦争の記憶継承に繋げたい考えを示している。
調査は11月27日から12月18日に実施され、カメラやロボットアームを搭載した無人探査機を調査母船から水中に降ろして観察。
水深約870㍍で船体を確認し、右船首近くに対馬丸と書かれた船名が残っていました。
付近の木片や土砂も収集しており、今後詳しい分析結果は改めて公表するとしています。
対馬丸による生存者は約280名と推計され、体験者は慰霊祭(沖縄や奄美大島など)に生存者や遺族が参加するなど、平和への思いを表明し、命の尊さを伝えるため、証言活動が続けられています。
乗船者1788名の内1484名(学童784名含む)が犠牲となり、生存者は7人に1人と言われていますが、軍や警察が当時、撃沈について生存者や遺族らに厳しく口止めしたこともあり、被害の全容は今も明らかになっていません。
対馬丸が狙われた理由
対馬丸が狙われたのは、太平洋戦争末期の米軍による通商破壊作戦の一環として、日本への物資輸送路を断つ事が目的として狙われた。
「対馬丸」
沖縄が米軍の攻撃目標となり、住民を本土へ疎開させるための国策が進む中、民間人を乗せた対馬丸が軍事目標とみなされ、米潜水艦(ボーフィン号、全長95m)による魚雷攻撃を受け撃沈されました。
この疎開船自体が日本軍の足手まといになる住民を減らし、食料確保や兵力温存を図るためのものとされ、戦争遂行の一環であるとみなされたのです。
しかし、戦争と言うものは「見境のない惨禍」である事を物語っています。
勝つためには何でもありと言うもので、人間ではなくなるのが戦争です。
正しい戦争など一つもありません。
「米潜水艦ボーフィン号」
退役、除籍後(1971年12月1日)ボーフィン号は真珠湾にて博物館船として展示されている。



0 件のコメント:
コメントを投稿