緑のお医者の徒然植物記

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2024/04/20

ナガミヒナゲシ No.687

 ナガミヒナゲシ

ケシ科 一年草又は越年生植物

越年生植物(えつねんせいしょくぶつ)とは

一年生植物のうち、秋に初芽して冬を越し、翌春に開花、結実して枯死する草本植物のことで、大麦、ダイコン、アブラナなどが知られる。

見た目はかわいい花と思える様なナガミヒナゲシですが、他の植物に悪影響を与える植物でもある。

ナガミヒナゲシには「アルカロイド性」の有害物質が含まれていて、害虫や動物から実を守るための植物毒を持っています。

そのため、素手で茎を触ったり、折ったりするとかぶれてしまいます。

葉っぱがヨモギに似ているため、間違って触ってしまう危険性があるので注意が必要です。

繁殖力が強く、他の植物の成長を妨げる成分(アレロパシー)を放出するので、生態系に影響を及ぼす植物とされます。


     「ナガミヒナゲシ」

原産地は地中海地方、沿岸地域の外来種で1961年にはじめて東京都世田谷区で確認されました。

ケシ科の植物と言えば「ヒナゲシ」が知られています。

見た目はヒナゲシによく似ていますが、花や実の大きさが異なります。

ヒナゲシよりも花が小さめで、実が細長い形状をしているのが特徴です。


    「ナガミヒナゲシの花」

     「ヒナゲシの花」

花後は実を付けて種を蓄え、種子は風や車のタイヤに付着するなどして運ばれ、生息範囲を拡大していく。

開花後の未熟な種にも発芽能力があるとされ、結実から5年を経たものでも発芽することができる。

種がこぼれ落ちるのは梅雨期の6月頃

雨で濡れたタイヤや靴底に種が付着し、道路沿いのあちこちに落下し、やがて成長し群生することになる。


❉アルカロイド

アルカロイドは植物中に存在し、窒素を含む塩基性化合物、天然由来の有機化合物の総称、ニコチンやコカイン、カフェインなどのことで、人畜に顕彰な薬理作用を持つものが多い。

一部のアルカロイドには中性や弱酸性を示すものもある。

アルカロイドは炭素、水素、窒素の他、酸素や硫黄、その他稀に塩素、臭素、リンと言った元素を含む。


❉アレロパシー

植物が分泌する化学物質により、他の植物や虫に作用を与える効果のことで、化学物質に頼らない害虫除去や雑草の抑制をするなど、様々な場面で注目されています。

アレロパシーは、オーストリアの植物学者「ハンス•モーリッシュ」によって1937年に提唱された。

日本では、アレロパシーは「他感作用」とも呼ばれる。

この作用の効果は、良い影響、悪い影響のどちらの場合もあります。

ひとつの種類のアレロパシーのみでは効果が弱くても、他の種類の植物のアレロパシーと合わせることにより、効果が発揮される場合もあります。

同じような意味で「フィトンチッド」がありますが、現在ではアレロパシーの方が一般的とされる。

フィトンチッドはロシアの植物、微生物学者の「B.P.トーキン博士」によって、アレロパシーと言う言葉とほぼ同時期に造られたとされる。

フィトン(植物が)チッド(殺す)と言う語源はゾッとする言葉だが、人間にとっては多くの恵みを与えてくれる「森林の精気」と言えるだろう。








2024/04/15

金のなる木 No,686

 カネノナルキ

ベンケイソウ科クラッスラ属
多肉植物
原産地=南アフリカ南西部


正式名は『クラッスラ•ポルツラケア』といい、フチベニベンケイ(縁紅弁慶)と言う和名や花月(かげつ)と言う別名もある。

属名のクラッスラはギリシャ語で「厚い」と言う意味で、厚みのある丸い葉が特徴となっている。



クラッスラ•ポルツラケアが日本に伝わったのは、昭和初期の頃とされ、当時、栽培業者が若葉の枝先に5円硬貨の穴を通してそのまま成長させた姿が、お金がなっているように見えた事から『金のなる木』と呼ばれるようになり、縁起物とされ人気となった。

乾燥や低温などの厳しい環境に適応し、世界中に分布するベンケイソウ科に属する丈夫な植物であるが、高温多湿には弱い。

カネノナルキは「一攫千金、富、幸運を招く、不老長寿」と言う意味を持っています。

小さな株によく花をつける系統と、大株にならないと咲きにくい系統があります。

❄さし木
挿し穂は切り口を乾かしてからさし木する。




さし木後は約1ヶ月水は与えず、しばらくそのまま半日陰で育てます。

花が咲かない原因

①日照不足
②断水
③せん定
④品種と株の大きさ

1年を通して日照時間の確保と、夏場の水やりを控えめにする事が重要です。

この環境下の場合には、葉がシワシワになってしまいますが、花芽に栄養を回し、開花に備えることが出来ます。

水を与えすぎると葉がぷりぷりとみずみずしくなりますが、葉ばかり成長してしまいます。

葉が落ちる原因

根腐れや根詰まりが原因で葉が落ちる場合は、早めに植え替えを行います。

根腐れを起こしていると茎がブニョブニョしてくる。

根詰まりしていると水やりの際、水の吸い込みが悪くなったりするので、状況を見極める必要があります。

根腐れした場合は、出来るだけ古い土を落とします。

腐った根は取り除いてから植え替えを行います。

植え替え後は風通しの良い半日陰の場所に置き、しばらく水は与えずに新芽が確認できたら水やりを与えます。

また、植え替え後の肥料も必要ありません。


   「せん定後植え替えの新芽」


植え替えは3月〜6月/9月から10月の2年から3年に1回を目安に行います。

土の配合例として、赤玉土小粒3割、軽石または日向土(微粒)3割、腐葉土4割








2024/03/31

せん定から1年後の桜の木 No,685


 切らぬ桜を切って1年

桜切るバカ梅切らぬバカ
そんな桜を切ってみる。


     「2024.03.30撮影」

遅咲きの吉野桜は蕾が見え始めた状態

    「2024.03.30撮影」


地際部の空洞化も少しずつ改善されている

接ぎ木の苗では、地際部の状態に問題が起きてくる事が多い。

この桜樹齢23年であるが、樹齢10年辺りですでに空洞化が起きていました。

アリや穿孔するカミキリムシの幼虫などが発生し、空洞化が進んだ。

穿孔口から薬剤を注入するなどの駆除、及び予防を毎年行った事で、空洞化の進行を抑えることができました。


地際部には根となるものが樹幹より伸び出している。(赤マルマーク)

太く成長する事を期待したい。


せん定する前年まで毛虫の発生が毎年続いていました。

多く発生していた毛虫は「オビカレハ」で、Y字となった枝の部分にクモの巣状の巣を作り、成長とともに枝葉全体に行動を始める。

葉は一夜にして食い尽くされる事がある。

よく観察しないと見つける事が出来ないので、発生期は毎日観察する事が重要です。

巣に戻ってくる習性があるので、巣に集まった毛虫が小さいうちに駆除する必要があります。

混み合った枝をせん定し、風通しを良くする事である程度の予防はできます。

オビカレハの卵を冬場に見つける事が重要


     「オビカレハの卵」

小さな枝(直径3㍉〜5㍉)に卵を産みつけている事が多いので、根気よく見つける必要があります。


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✿せん定後初の開花


     「4月6日撮影」


     「4月10日撮影」



     「7月8日撮影」








2024/02/28

梅にまつわる話 No.684

 梅にまつわる話

梅の起源、伝来、花木の歴史は古く、今から二千年前にはすでに存在していたと言われています。

明確な歴史は不明とされ、二千年前に発行された中国最古の薬物学書の『神農本経』の中に梅に関する記述があることから、そう伝えられるようになったと考えられています。


その薬物学書にはすでに梅の効用が説かれている。

また、日本に梅が伝来したのは3世紀の終わり頃とされ、その伝来には諸説がある。

一つは、百済の帰化人、王仁がもたらしたとする説

❉百済(くだら、ひゃくざい、ペクチャ)は朝鮮半島南西部を占めた古代国家で、4世紀頃から唐、新羅連合軍に滅ぼされる660年まで存在し、新羅(しんら、しらぎ)や高句麗(こうくり)とともに朝鮮半島に存在していました。

❉王仁(わに)とは、古代百済から渡来した学者のこと

百済の滅亡によって日本(倭国、わこく)は朝鮮半島から完全に切り離されてしまった。

百済滅亡は日本にとっては大事件だったのです。

もう一つの説は、欽明天皇の大和時代に中国、呉の高僧がもたらしたという説

❉欽明天皇(きんめいてんのう、509〜571)は531年に即位し、日本の第23代天皇となりました。

古代中国の歴史書「書経」には梅の産地中国では、紀元前600年頃には梅漬けの酢を使った「塩梅」という調味料が存在していたと記されている。

また、現存する農業書である「斉民要術」には梅の加工品には烏梅、白梅、蔵梅があったことが記されている。

✫烏梅(うばい)は、完熟した梅の実を燻製にして作られたもので、濃縮された酸味が強いため、薬用とされていました。

✫白梅は、熟した実を塩水につけ乾燥させた食品。

✫蔵梅は、日本で言うと砂糖漬けのようなものであったとされる。

日本で普段食べている「梅干し」は日本独自のものである事が窺い知れる。

「梅干し」という名称は文明10(1478年)の室町時代では「むめつけ」と言われ、明応2(1493年)には「梅つけ」との記述があり、延宝8(1680年)江戸時代には「梅ほし」と記述されており、時代ごとに呼び名も異なっていました。

当時の梅干しは現在のように広く民に知られた存在ではなく、塩が希少であった室町期まで梅干しは高級品とされていました。

果実が注目されて生産されるようになったのは江戸時代以降ですが、日本独特の「梅干し」という優れた健康食品の開発とともに、各地で多くの品種が作り出され、現在でも和歌山や水戸などの特産品として残っています。

日本の文献に「梅」という文字が最初に現れるのは日本最初の漢詩集とされ、懐風藻(かいふうそう、751年)の中に収められています。

現存する日本最古の「万葉集」歌集にも梅を題材とした和歌が数多く記されています。

❉万葉集=桂本万葉集(平安時代中期)、西本願寺本万葉集(鎌倉時代後期の写本)

『万葉集』は7世紀前半から759年までの約130年間の歌が収録されています。

万葉集では桜に比べても梅が圧倒的に多く詠まれています。

それは、中国から渡来した珍しいもので、美しい花を咲かせた梅であったことや、春を呼ぶ花として季節が変わりゆくさまや、喜びの気持ちを梅に託して詠んだのでしょう。

菅原道真は梅をこよなく愛した人物として有名


梅干しの種の中身を俗称で「天神様」と呼ぶが、その天神様とは、平安期に右大臣として活躍し、学問の神様として広く信仰される菅原道真=すがわらのみちざね(845〜903)や、道真を祀る天満宮の事を言う。

道真は梅にまつわる歌を多く残している。

梅干しの種の中心部分を「天神様」と呼ぶようになったのは、江戸時代の半ばで「梅を食うとも種食うな、中に天神寝てござる」という歌が庶民に語られるようになり広まったとされる。

梅の種は食べ過ぎるとお腹に良くないと考えられていたため、特に子ども等が誤って食べてしまわないように、人々が知恵を絞ってこのような歌を作ったのかも知れません。


人々の天神信仰という事もあって、道真が愛した梅の種の中に「天神様が宿っている」という伝えは、庶民にはとっても素直に受け入れられたのではないだろうか。

梅の種を粗末に扱うことのないようにと、太宰府天満宮には江戸時代に「梅の種納め所」が設けられていました。

この種納め所は、現在も太宰府天満宮本殿の右側に残っています。


     「梅の種納め所」

❄梅の種納め所
天保15年(1845年)正月建立

所在地=福岡県太宰府市宰府4丁目7
太宰府天満宮

幼少期の頃、我が家では梅の種を海に投げ捨てると海が荒れるから、捨ててはいけないという言い伝えがあった。

実際に行って見たことはないが、先代の伯父さんが小漁師をやっていた事も関係があるのかも、しかし現実に起きるのかは定かではありません。


梅は咲いたか?桜はまだかいな?


梅は咲いたか 桜はまだかいな

ただ ただ ひらひら

華麗に待ちわびる花

梅は咲いたか 桜はまだかいな

この歌は江戸時代から明治時代の花柳界で流行った端唄(はうた)で、このあとの歌詞に、「柳やなよなよ風次第 山吹や浮気で色ばかり しょうがいな」と続く。


しょんがえ節という流行歌を基にした江戸端唄で、花柳界の芸妓たちを季節の花々に例えて歌っています。

花柳界の芸妓の世界では、梅は若い芸妓、桜は上の姐さんといったところでしょうか。

端唄は邦楽の一種で三味線を伴奏として歌う。

端歌、葉歌、破歌、葉唄などの表記があり、時代や地域によって定義が異なる。

端唄は、江戸時代中期に江戸市中で好まれて唄われた大衆はやり唄で、小唄の母体となるもので、小唄に比べると表現の仕方はあまり技巧的(精巧的技能)ではなく、撥(ばち)弾きであるため華やかとされる。


花言葉と飛梅伝説

梅の花は寒さや厳しい環境にも耐え咲くことから、逆境にも負けずに高潔な態度を持つことを象徴しています。

積極的で良い意味の花言葉が多いことから、特に贈り物として渡しても喜ばれると思います。

花言葉の「忠実」は菅原道真の飛梅(とびうめ)伝説が由来とされる。

日頃から庭の桜や松、梅の木との別れを惜しみ、「東風(こち)吹かば にほひおこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」

現代語に訳すと、梅の花よ、春風が吹いたら香りを太宰府にまで届けておくれ、私が居ないからと言って、咲く春を忘れてはいけないよという意味の歌です。

主人との別れを受けた桜の木は、悲しみの余り耐えきれずに枯れてしまった。

松と梅の木は主人のいる太宰府を目指すが、松の木は途中で力尽きてしまった。

辿り着けたのは梅の木だけでした。

この伝説が「忠実」という花言葉の由来とされています。

太宰府天満宮の樹齢千年を超える「飛梅」はご神木として現存しています。

この梅の木は境内のどの梅の木よりも先に開花するという。


梅干しは三毒を断つ

梅干しを食べると体の様々な不調の改善が期待できるということわざで、この事は日本に現存する最古の医学書「医心方」にも記載されている。

❉医心方(いしんぽう)とは

平安時代に宮中医官を務めた「鍼博士の丹波康頼」が、中国の多くの医書を引用して病気の原因や治療法を述べたもので、日本に現存する最古の医学書とされている。

丹波康頼=たんばのやすのり(912〜995)


三毒とは、「水毒」「食毒」「血毒」のことを指しますが、それぞれの具体的な意味は、水毒は体の水分の汚れを改善するとされる。

食毒は、暴飲暴食や食あたりなどの食事による毒の改善。

血毒は、血液の流れが原因の毒の改善とされる。

梅に由来することわざは多く存在しています。

梅がいかに日本人の生活に根付いていたものかをこの事からも窺い知る事ができるだろう。

現在の梅は大別して観賞用の花梅と、果実栽培用の実梅とに分けられますが、みうの中にも美しい花をつける物が少なくありません。

梅は花木として日本人に愛され、観賞用が先行し、花色や花形なとを多様な品種が多く作り出されてきました。

梅は早春を飾る花木として、桜と並び重要な役割を担っています。








2024/02/21

武雄の大クス No,683

 武雄の大クス





武雄の大クスは、温泉と焼き物で知られる佐賀県武雄市のほぼ中心部の、武雄神社の境内にある。

樹齢三千年とされるクスの木は武雄神社のご神木となっている。

空洞は上部まで通じ、中には20人ほどが入れる広さを持つ。

市指定天然記念物にとどまっているのが不思議なほどの名木であり、国指定天然記念物に格上げられてもいいと思える巨木である。

縄文杉や蒲生の楠(鹿児島県)などが有名であるが、武雄市も巨木の宝庫である。


国指定天然記念物の「川古の大楠」は環境省の調査で全国3位に選ばれている。

武雄の大クスは全国7位にランクする巨木

所在地=武雄市大字武雄5337-1








2024/01/16

センダン No.682

 センダン(栴檀)センダン科

別名アフチ、オオチ、アミノキ

果実は薬用として知られ、しもやけ、ひびには果肉を潰して外用する。

樹皮は駆虫剤、虫下しなど

材は器具や建築に使われる有用樹です。

万葉の昔から古名の「アフチ」で親しまれている。

沿海の山野に生える落葉高木で、昔は獄門のさらし首の木として使われたこともある。

リンネの植物の種にも記載されている。

カーネル·フォン·リンネはスウェーデンの博物、生物、植物学者で分類の父と称される。

❉リンネ関連ブログ
博物:植物学者カーネル·フォン·リンネ
No.78


琴平の大センダン

樹齢約300年
樹高18メートル

国指定天然記念物
1953年(昭和28年3月31日)





❉所在地
香川県仲多度郡琴平町129

琴平町には讃岐の金毘羅さんと呼ばれ、古くから海の守り神として知られる金刀比羅宮(ことひらぐう)があり、参拝客で賑わってきました。

長い石段を下りてしばらく行くと、観光バスの駐車場に大センダンが見えてくる。

難渋するお遍路さんのために植えられたとも言われ、四国ではよく目にする樹種です。

❉難渋(なんじゅう)とは、物事の処理や進行が難しくて、スラスラ行かない事を意味するが、そのさまを指すこともある。

琴平の大センダンの他に、国指定天然記念物に指定されている徳島県阿波の野神の大センダンがある。