平安時代の庭園
平安遷都794年〜鎌倉幕府成立1192年
この時代は特に、「公家」などの貴族が勢力を伸ばし、そして衰退して行くという時代です。
❉公家(くげ)とは、天皇に仕えて政務や儀式を行った貴族階級の官僚たちのことで、本業として何をしていたのかはあまり知られていない。
平安時代末期に、武士が大きな力をもつようになると、天皇の政治的な権力は低下していきました。
この時代の初期は、唐風の文化が最も栄えた時期でしたが、中期になるとそれらの文化も次第に日本風に再構成されていきました。
建築様式が変わったことで、それに合わせて造られた庭園が「寝殿造り」の庭園と呼ばれるもので、これは奈良時代の自然を模写した庭園が一層大規模になったものとも言えます。
寝殿造りの建築物や庭園は遺構としては残っていませんが、絵巻物や当時から残っている宇治の平等院などから、かなり明確にその形が推定されています。
寝殿造りの建築は原則として左右対称ですが、庭園は必ずしも左右対称ではなかったようです。
この頃に庭内に作られた自然風の細流は「遣水(やりみず)」、庭園に植えられた草木のことは「前栽(せんざい)」と呼ばれていましたが、今日では庭内の小さな流れを総称したものが遣水で、また草花や植木を合わせて或いは庭のことを前栽と呼ぶこともあります。
平安時代後期になると、浄土思想を背景にした仏教が盛んになり、寺院の庭園にも浄土を表現しようという発想が生まれました。
こうして造られたものが浄土庭園です。
この浄土庭園では通常、南面した阿弥陀堂の正面に池や中島が設けられ、阿弥陀堂に対して池の手前を現世、阿弥陀堂側を浄土と考えたようです。
技法的には、寝殿造りの庭園に見られたものを受け継いでいると考えられます。
有名な浄土庭園として、京都の宇治平等院、平泉の毛越寺(もうつうじ)、京都加茂町の浄瑠璃寺(じょうるりじ)などがあります。
「浄瑠璃寺の庭園」
この時期に庭師として働いていたのは主に僧侶で、これらの人たちを石立僧(いしだてそう)といいました。
また、この時代には造園史上特上特筆すべきことがあります。
それは、「橘俊綱」が現在では最古と考えられている「造庭書」を1063年に著したことです。
これは江戸時代になって「作庭記」と名付けられましたが、自然風な作庭の考え方とその技法について詳細な記述が見られ、現在でも高く評価されています。
❉橘俊綱(たちばなのとしつな)
1028年〜1094年
平安時代中期から後期にかけての貴族、歌人であり、藤原頼通(ふじわらのよりみち)の次男で讃岐守官人、橘俊遠(たちばなのとしとお)の養子