飛鳥時代以前の庭園
古墳時代から平安遷都
平安遷都(へいあんせんと)とは、長岡京から平安京へ都を移したことで、794年に実施された都遷り(みやこうつり)のこと
飛鳥時代以前の庭園は、その遺構が、残ってないので形態などは明らかではありません。
しかし、日本書紀には「蘇我馬子」が620年頃に、池や中島のある庭園を作った記録があり、この頃は庭園そのものを「島」とも呼んでいました。
蘇我馬子(そがのうまこ)は飛鳥時代の政治家及び貴族で、邸宅に島を浮かべた池があったことから、島大臣(しまのおとど)とも呼ばれた。
海の島から庭内の島へ、さらに庭そのものへと言う関連があったものと想像されます。
西洋や中国の庭園と異なり、日本の庭園はその初期から、自然景観の模写という要素が強かったと考えられます。
612年に「百済」の国から、我国に帰化した路子工(みちのこのたくみ)と言う庭の専門家が、「須弥山」を宮中の庭に作ったことも日本書紀に書かれています。
❉百済(くだら·ひゃくざい)とは、古代の朝鮮半島西部及び南西部にあった国家で、四世紀から660年頃まで続いた古代国家です。
✪須弥山(しゆみせん)とは、仏教で考えるところの宇宙の中心にある山の名です。
蘇我馬子は、父親の代から続く対立に決着をつけるため、聖徳太子や他の豪族らと挙兵し、「物部守屋」を攻め滅ぼした。
そして飛鳥の地に法興寺=飛鳥寺を建立し、仏教興隆を促進した。
物部守屋(もののべのもりや)は、古墳時代の有力豪族であった。
日本で最古とされる庭園
三重県伊賀市の国指定名勝の「城之越遺跡」(じょうのこしいせき)で、古墳時代の4〜5世紀(3〜400年代)に作庭されたと推定されています。
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