明治、大正、昭和初期の庭園
大政奉還1867年〜終戦1945年
明治になると鎖国令が解かれ、外国の文明が一挙に入ってくると同時に、世の中の仕組みがすっかり変わってしまいました。
造園史の上では、西洋文明と共に西洋庭園の様式が渡来しました。
しかし、この時代には本格的な洋風庭園として造られたものは少なく、わずかに新宿御苑、三井クラブ、三菱松濤園、古河庭園などが、この時代に造られた洋風庭園(整形式庭園)の代表的なものとして挙げられます。
一方、伝統的和風庭園の技術は、当時外国貿易で莫大な財産を得た商人や、政府高官の庭に受け継いで伝えられていました。
そして貿易会社等の中には、外国の取引先の接待のために、彼らの喜ぶ和風庭園を造ることも少なくありませんでした。
このようにして造られた庭園には、横浜の三渓園、東京の深川親睦園(現清澄庭園)などがあります。
「清澄庭園」
山縣有朋(やまがたありとも)は第3代内閣総理大臣で、個人として特に庭に精通し、庭を愛した著名人です。
軍人でもあり、政治家でもありましたが、庭園築造の構造にも巧みで、庭師の小川治兵衛(おがわじへい)を起用し、京都の無鄰菴(むりんあん)、東京の椿山荘(ちんざんそう)、小田原の古稀庵など、柔らかい感じの自然風の流れのある庭園を造りました。
小川治兵衛は、明治から昭和にかけて活躍した作庭家で、明治から大正期の名庭園を数多く手掛けた、近代を代表する名庭師です。
庭園に芝生を初めて用いた植木職人7代目、植治(うえじ)とも呼ばれ、明治の総理大臣であった山縣有朋によって、その才能を引き出されたと言われています。
西洋庭園は、整形式庭園と言う形では、この時代に必ずしも大きな影響を残したとは言えません。
しかし、実用の庭と言う新しい形式を住宅庭園に持ち込んだ意義は、大きいと言えるだろう。
これまでの日本の庭園は、観賞を目的としたものが多くありましたが、西洋庭園の様式が紹介されてからは、日本でも庭でくつろいだり、食事を楽しんだりするためのテラスや、芝生地が設けられるようになりました。
また、草花を観賞する花壇なども作られるようになり、それまでに比べ色彩が豊かで明るい庭園が多く出現し、庭園の様式に多様化が進みました。
更に、個人庭園が小規模化し、一般化の傾向を呈するようになったのもこの時代です。
この傾向は戦後になって一層著しくなります。
この時代以前では、一部の権力者か富豪の象徴とされた庭園ですが、段々中流階級と言われる人々の間でも、造られるようになってきたのは大きな特徴と言えます。
大正に入ると、日本の近代造園史上特筆すべき事業が二つ行われました。
一つは、明治神宮内外苑の建設で、その規模や修景計画、施工技術など、それに近代造園学の修得者が造園に関与したという点で、造園史上に大きな足跡を残しました。
もう一つは、震災復興計画事業です。
大正12年(1923年)の関東大震災は、東京、横浜に大きな被害をもたらしました。
そのため、公園の必要性と価値が強く認識され、錦糸公園、隅田公園、浜町公園と52の小公園が東京に造られました。
山下公園、野毛山公園、神奈川公園の3公園が横浜に新設されました。
❉公園史の上では、明治6年1月15日に太政官政府から府県に公布された、太政官布達(だいじょうかんふたつ)第16号によって、東京府は太政官政府に対して、浅草(金竜山浅草寺)、上野(東叡山寛永寺)、芝(三緑山増上寺)、深川(富岡八幡宮)、飛鳥山の5箇所を上申して、東京に五つの公園が生まれました。
これが日本における公園の始まりであったと言われています。
元々、江戸時代から庶民の遊興地であったのがこの5箇所です。
現在の公園と言える場所は、上野公園と飛鳥山公園の2箇所のみで後は神社仏閣の敷地です。
また、この公布は国の所管に関わる土地のうち、景勝地、名所、史跡等を公園として残すというものです。
その後、続々と多くの名所や城跡などの公園化される事になりました。
しかし、それは以前から公園としての役割を負っていた場所がほとんどで、新規に建設された公園は多くありませんでした。
また日本で、整形式の洋風公園が初めて造られたのが東京の日比谷公園です。