緑のお医者の徒然植物記

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緑のお医者の徒然植物記

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2021/12/14

クリスマスの木 No.574

 クリスマスの木

クリスマスの木は知恵の樹の象徴とされる。
別名=聖樹(せいじゅ)

コニファー、モミ、トドマツ、エゾマツ、ドイツトウヒ、コーカサスモミなど

全米クリスマスツリー協会によると、クリスマスツリーの種類は59もあるそうです。

基本的には耐暑性や耐寒性に優れている。


クリスマスツリーが日本で最初に飾られたのは今から161年前(1860年)のことで、プロイセン王国公館で飾られた。

その当時の公使であったオイルレンブルクは、天井にとどく程の大きな樹を持ち込み、華やかなツリーを楽しんだと言われています。

『プロイセン王国(1701年)はホーエンツォレルン家の君主が統治したヨーロッパの王国。

現在のドイツ北部からポーランド西部にかけて領土とし、首都はベルリンにあった。

1918年からドイツ革命によりヴァイマル共和政のプロイセン自由州となった』

その後、横浜のスーパーマーケットの「明治屋」が、1886年12月7日、横浜に日本初のクリスマスツリーを飾ったとされる。


『明治屋は1885年(明治18年)に磯野計が、4年間(明治13年)の英国留学によって得た貴重な体験を基に横浜で創業した。

三菱財閥と関係が深く、キリンビールの販売を手掛ける。

貿易商グラバーとの出会いが、明治屋とキリンビールを固く結びつける縁となった。

明治42年、スコットランドから輸入した貨物自動車は、警視庁登録番号「1」で愛称『ナンバーワン自動車』として人気と注目を集めました。

車全体を大きなビン形に仕上げ、街中を走り回り宣伝を行った。

明治屋のナンバーワン自動車は、宣伝カーのはしりとして大きな役割を果たした、広告史に残る快挙であると言えるだろう』


クリスマスツリーはキリストとはおよそ無関係である。

クリスマスツリーの原型は、北欧に住んでいた古代ゲルマン民族の「ユール」と言う、キリスト教が伝来する以前の時代から、北欧に伝わる古い冬至の祭で使われていた「樫の木」である。


冬でも葉を枯らさない樫の木は、生命の象徴とされていました。

ゲルマン民族は現在のデンマーク人、スウェーデン人、ノルウェー人、アイスランド人、アングロ·サクソン人、オランダ人、ドイツ人などがこれに属するが、これらの民族の祖先と考えられる。

ゲルマン民族大移動(3世紀~7世紀)以前の古ゲルマン人を指す場合が多い。


北欧諸国では現在でもクリスマスの事を「ユール」と呼ぶ。


現代では、クリスマスと言えばモミ(樅)の木が定番化しています。

クリスマスはキリスト教の主要な行事ですが、そのルーツは古代ローマ帝国やゲルマン民族の冬至の祭だと言われています。

この時期に行われていた冬至祭が後にキリスト教と融合し、12月25日がイエスの生誕祭とされたのだと言われています。


モミはマツ科モミ属の常緑針葉樹で、北半球の寒冷地から温帯にかけて分布しています。

日本でも本州、四国、九州に分布しています。


         「モミの木」


クリスマスツリーの木として親しまれていますが、大気汚染に弱く、車の排気ガスなどによって枯れてしまう事があります。

北欧やイギリスにはモミ類は自生していないので、ドイツトウヒがクリスマスツリーとして使われることが多いようです。


トウヒ(唐檜)は唐風(中国風)の檜に見立てた名前だと言われています。

ドイツトウヒと同様にモミの木の仲間で、樹皮は暗赤褐色でやや灰色を帯びるが、地衣類が付着して白っぽく見える木が多い。



エゾマツと同種と考える学者もいるが、葉が短く、球果が小さいなどの違いがある。









2021/12/04

ナナカマド No,573

 ナナカマド バラ科 「七竈」

ナナカマド属 落葉高木

材が堅く七度もかまどに入れても燃え残ると言うのが、名前の由来とされるのが一般的な説であるが、実際にはよく燃える。


       「ナナカマドの紅葉」


紅葉や果実が美しい代表的な樹で、北国では街路樹として親しまれている。

北海道、本州、四国、九州、南千島、サハリン、朝鮮半島に分布


北半球に約80種が知られ、このうち中国からヒマラヤ、カラコルム(モンゴル)、天山山脈(中国、キルギス、カザフスタンの国境地帯に連なる山脈)にかけて50種が分布している。

日本には6種が自生する。


       「ナナカマドの果実」

ナナカマド属は葉が奇数羽状葉のナナカマドの仲間と、葉が単葉の「アズキナシ」の仲間に大きく分かれる。


ナナカマドの仲間は果実の表面に皮目がなく、頂部に萼片(がくへん)が残る。

アズキナシの仲間は果実の表面に皮目があり、萼片が残らない。

また、両者を別属にする見解もある。

若木の樹皮は淡褐色で楕円形の皮目があり、ややなめらか。

成木になると暗灰色で浅く裂けるのが特徴です。

材は器具材、機械材、薪炭材などに利用され、樹皮は染料に使われる。

アズキナシ(小豆梨)は、果実が小豆に似て梨のような石細胞を持つのでこの名がある。

広く開けた場所では大木になるものが多く、15メートルにも達する。

若い木では花つきが悪く、ある程度生長しないと花も果実もつけない。


         「アズキナシ」

枝は紫黒色で白い皮目が散在し、目盛りのように見えるのでハカリノメとも呼ばれる。

花は白く初夏に咲く。






2021/11/06

救荒作物サツマイモ No,572

サツマイモ 

ヒルガオ科サツマイモ属 多年草植物
食用部分である「塊根、かいこん」
「甘藷=かんしょ·中国での名前」「唐芋=からいも·中国から来た芋」とも呼ばれる。

原産地=中南部、メキシコを中心とする熱帯アメリカで生まれ、ヨーロッパ、中国、日本などへ広まり各地で栽培されている。


    「べにはるかの若葉」


焼酎の原料やデンプン原料用、菓子用等の加工食品用など幅広く利用され、飼料にも使われて、また食物繊維が多いことから、便秘改善にも役立てられている。

紀元前800~1000年頃には、中央アンデス地方でサツマイモが作られていた。

もともと先住民の人口が多かったメソアメリカや、中央アンデス地方では、スペイン人植民地が王室の許可により、割り当てられた先住農民の労働力を利用して大農園を形成した。

アンデス地方は、コロンビアからチリ北部にかけてアンデス山脈が縦走する地域で、赤道を横切って南北に長く走る。

アンデス山脈は高度が低くなるので雨量も多い。


紀元前200~600年に作られたサツマイモを型どった土器も見つかっています。


これはペルー北海岸の辺りで栄えた「モチェ文化」のものです。

モチェとはペルー北海岸にそそぐモチェ川から名称をとった。

「モチーカ」と呼ばれることも多いが、しかし研究者の間では、スペイン人到着時に北海岸の住民が話していた言葉の名称と言う事で、避ける傾向が強いとされる。

さつまいも祖先種イポメア·トリフィーダ

さつまいもの起源はメキシコやペルー近辺の中南米にあり、イポメア.トリフィーダと言う野生種が祖先種であることが判明している。

従来の分類学では野生の祖先種は、栽培種と同種でその野生型として扱われるようになっている。

北部アンデスの標高約1000㍍の温暖地に位置しているカリ市内を流れるカリ川岸や、そこからアンデス中腹の標高約1500㍍までの路肩や、人家の庭にはトリフィーダの群落や放任栽培と見られるさつまいもがあちこちに見られる。


   「イポメアトリフィーダ」



長い期間に突然変異を起こしたり、他の野生種と交雑したりして多くの変異を生じ、その中から人為的に選抜されて現在のサツマイモが誕生したとされる。

モチェ文化はモチカ文化とも言われ、紀元後100年頃から500年頃までペルーの北部海岸地方に生まれた、いわゆるアンデス文明の開花期の地域文化の一つで700年頃まで栄えたと言う。


ヨーロッパへはコロンブスが15世紀末にアメリカから持ち帰ったのが始まりとされる。

だが、涼しすぎる気候が合わなかったことで、余り作られることはなかった。

温暖なアメリカ、インド、東南アジアの植民地に持ち込まれたことで世界中に拡がる事となった。


東南アジアへはスペイン人やポルトガル人が持ち込んで、その後中国へと拡がったとされる。

しかしそれより前に、熱帯アメリカからポリネシアの島々に持ち込まれたと言う説もある。


この事が本当の事であるかを実証するため、ノルウェーの探検家「トール·ヘイエルダール」は1947年4月18日、古代のいかだと同じものを造り、南米ペルーから太平洋を渡り、102日かかってタヒチまでたどり着きます。

この事は「コン·ティキ号探検記=コンチキ」と言う本にまとめられています。


日本へのサツマイモの伝来ルートは諸説あると言われていますが、すでに紀元前100年頃に南米から海路ポリネシアに伝わったとも言われています。

記録として残っているものによれば、16世紀にインド、マレー、インドネシア、フィリピンへと伝わり、中国の福建省には1584年に伝えられています。


日本へは1597年に宮古島に入ったのが最初とされ、琉球諸島へは福建省から1605年に入って栽培され始めたとされ、1609年以降薩摩の領有権支配に伴って薩摩地方へと伝わったことでさつまいもと呼ばれ、その後主に九州地方で栽培されるようになったとされる。


その後、江戸時代初期から中期の頃の度重なる飢饉によって★救荒作物として注目され、西南暖地を中心としながら全国に普及していった。


第二次世界大戦後の日本では大増産期(昭和30年の700万トン)があったが、その後、食生活が安定化するとともにその生産は激減し、一部の貧困家庭だけが主食作物として使用した。

ピーク時の昭和30年から18年後、子どもの頃の我が家の主食はサツマイモであった。

給食もない小学校で、サツマイモだけの弁当を教室で食べることがなかなかできなかった、そんな思いをしたが同年代でもそのような経験をした人は少ないだろう。

いかに貧困家庭だったかがわかると思う。



★救荒(きゅうこう)作物とは、一般の作物が不良で凶作の時にも生育して収穫できる作物で、蕎麦、さつまいも、しじゃがいも、ひえなど天候異変に強く、荒れ地でも育成可能なもので、また「救荒植物」と言う場合は、通常は食用にしないが、飢饉の際食用にする野生の植物を指す。

農作物の育成技術が貧しかった昔々は、農作物か十分に実らず、食物が欠乏して人々が飢え苦しむ時代があった。


日本では、昔ほどの生産量はないが、関東や
南九州の畑作地域においては、地場産業の振興になくてはならない重要な作物となっている。


茨城県は全国第二位のサツマイモの産地で、紅あずま、紅まさりなどが知られる。


「紅こがね」はJAなめがた(行方)しおさいのオリジナルブランドで、JAなめがたしおさいが出荷した紅あずまだけにこの商品名を使用することができます。


9ヵ月間も熟成された「熟成紅こがね」は糖度が非常に高く、焼き芋にすると甘味が更に増し、しっとりとした口当たりで、冷めても柔らかで濃厚風味を味わうことができると言う。

たくさんの芋を頂いたので、芋けんぴを作ってみた。

安納芋は通販で買ったので、焼き芋にした残りで芋けんぴを作ってみました。

基本的に安納芋は芋けんぴには向いていない。

しっとり系はカリッとしませんね。


◉さつまいも関連ブログ
大飢饉を救ったのはさつまいも No,578









2021/11/01

桜の管理の必要性 No,571

 桜樹

一般家庭で桜の木を植えることは少ないことですが、地方自治体の殆どの場所には花見会場として、桜の木を植樹している。


自治体によって桜の木の管理のあり方も様々で、多かれ少なかれ適切な管理をしている自治体は少ないのではないかと思う。


主に、春先までの管理を重点に行っているかで、桜の開花や花数にも影響する。




キノコが発生し、枯れてしまっている幹の部分であるが、全く手入れがなされていない花見会場にある桜の木である。


ならたけ病に侵された幹の部分は、数年間全く手入れがなされていない事が伺える。


主に樹幹の地際部や根に発生し、若木では病気が急速に進行して全身が萎ちょう枯死に至るが、成木でははじめ一年から二年生枝梢の枯死が起こり、数年かかって次第に衰弱して行き、ついには全身が枯死にいたる。

写真の桜の木はまだ若いが、病気の進行も早く主幹がほとんど枯れてしまっている。


病原菌は担子菌類に属する糸状菌の一種であり、サクラ類のほか多数の広葉樹、針葉樹、果樹などを侵して被害を及ぼす多犯性の菌である。


日本をはじめ、韓国、中国などアジアのほか、北米、南米、欧州など熱帯から亜熱帯まで南北両半球の世界各地に広く分布する🍄キノコである。


防除法

各地の桜にならたけ病の被害が多いが、これには桜の根部外科手術によって治療を図る手段が望ましい。


それは、被害樹木の根の周囲の土を掘り上げ、病患部及び羅病根をすべて切除します。


切り口にはチオファネートメチル塗布剤を塗り、掘り上げた土壌にバーク堆肥を加えてよく混ぜ、埋め戻します。

対処樹木は、樹勢が回復し根が発達し終えるまで支柱を添えてあげます。


また、枯死してしまった樹木の跡地には、クロルピクリン剤、ダゾメット剤などのガスくん蒸剤による土壌消毒を行う。



桜切るバカ、梅切らぬ馬鹿


そんなことわざがあるが、切った後に切り口を保護しないで枯らしてしまう事が原因である。

木にも強い、弱いがあるので、その木の特性にあった保護をしてやらなければいけない。

手入れもしないで枯らしてしまうのだら、切る以前の問題である。




枝を切る場合、切る位置も大切です。

どこで切ってもよいと言うような樹木もありますが、ほとんどが切る位置があります。


我が家の吉野桜も一枝剪定しました。
管理が大変なので樹高を低くするためです。

健全な枝ですが、間引く必要もあった枝なので切り取りました。









2021/10/28

山本懸蔵記念碑碑文 No,570


 総選挙の度に思う。

暗黒の歴史を繰り返す勢力に政治を委ねてはならないということを、、


暗黒政治の下で、不当に命を奪われた者たちの事を忘れないために、遺さなければならない闘争の歴史がある。



         「2021.10.28撮影」


山本懸蔵記念碑碑文

山本懸蔵は、1895年、明治28年2月20日茨城県鹿島郡矢田部村押上に生まれた。


小学校を終えた後上京して労働者となり、1914年頃から労働運動に参加し、科学的社会主義に接近した。


米騒動で投獄された後、労働運動に専念し、日立、足尾、神戸など各地の争議を指導した。


1922年7月に日本共産党が創立されると、山本はただちに入党し、逮捕、投獄に屈せず、精力的に活動し、外国に渡って国際連帯の活動を活発におこなった。


1925年結成の日本労働組合評議会の代表的な指導者となり1927年(昭和2年)には静岡県での衆議院補選に、翌年の最初の普通選挙に北海道でともに労農党から立候補した。


同年、日本共産党中央委員に選任された。

1928年、ソ連に渡り、プロフィンテルンおよびコミンテルンで活動した。


★プロフィンテルン及びコミンテルンとは、1919年から1943年まで存在した国際組織で
コミンテルンの指導下に結成された左翼系労働組合の国際組織のこと


日本の階級的労働組合運動の闘争を援助し、日本共産党の方針「32年テーゼ」の作成に参加し、1936年には「日本共産主義者への手紙」を発表し、人民戦線を結成して日本の暗黒政治と侵略戦争に反対してたたかうことをよびかけた。


★32年テーゼとは、1932年5月コミンテルンで決定された「日本における情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」の通称。

赤旗=初刊当時は「せっき」と言った。
1932年7月10日特別号に発表された。

テーゼとは今日の綱領的文書に相当する(定立、言明)


しかし、1937年11月スパイ容疑と言うことで根拠なく逮捕され、本人の否定にも関わらず、1939年3月10日銃殺刑の判決を受け、即日モスクワで処刑された。


44歳

党中央委員会は、この報に接し断固抗議。


1956年、ソ連当局によって無実として名誉回復された。


妻、関マツは、1924年の結婚以来、終始懸蔵の活動を大きく援助し、1968年8月17日モスクワで死去した。


山本懸蔵の名は、「山懸」という愛称とともに、日本の社会進歩の事業の歴史に長く記録されるであろう。



山本懸蔵記念碑建設委員会

1973年10月7日建


1992年5月、山本懸蔵が派遣され活動したソ連邦の権利、義務を引き継いだロシア連邦政府からの山本懸蔵死亡年月日の正式通報があったので、1993年12月に改造した。

1993年12月吉日改

日本共産党中央委員会




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No,224
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2021/10/27

気候変動を招いた資本主義産業 No,569

 気候変動、地球温暖化

今、世界各国で地球温暖化が問題となっているが、各国が提出した温室効果ガスの排出削減目標を集計した報告書が25日、公表されました。


報告書では、現在段階の目標を達成しても2030年の世界の温室効果ガス排出量が「10年比16%」増加すると指摘している。

各国、地域がより強力な目標を設定しない限り、今世紀末までに世界の気温が2.7度上昇することになると警告しています。


報告書はパリ協定「地球温暖化対策の国際枠組み」のすべての締約国192ヵ国、地域の目標を集計、その内目標を新規提出、更新した国は143ヵ国。

中国に次ぐ排出量を記録する欧州連合(EU)と、3位である米国が新たな目標を設定しました。


一方、中国と4位のインドは古い目標のままで設定を更新していません。


また、多くの途上国の削減目標は富裕国から資金援助と技術移転が前提となっている。


2030年までに温室効果ガスの「10年比で45%削減」を揚げる国連の目標実現については、産業革命以来、CO2を長期に渡って排出してきた先進国に特別な責任があります。


しかし、日本の削減目標は46%(13年比)であり、10年比換算では42%に過ぎません。


50~60%の削減を目標とする世界の主要国に比べても、極めて低いものです。


この目標に消極的な日本政府の姿勢に対して、環境団体は世界第5位の大規模排出国としての責任に背を向けているとし、国際社会からも批判を受けると批判しています。


現在日本では総選挙の真っ只中ですが、この気候変動、地球温暖化に対しての公約を揚げている政党は日本共産党以外に無いようである。


本来なら、政権与党が掲げなければならない公約ではないでしょうか。



地球温暖化に対しても深く取り組んでいく政府が今、求められています。

深く考える必要がある重要な問題として、追求しなければならない時にきているのです。


地球上で起こる様々な大気現象は、太陽から受け取ったエネルギーを源としています。


地球が太陽から受け取ったエネルギーは、大気圏だけではなく様々な形態を取りながら、最終的には赤外放射として宇宙空間に戻され、ほぼ安定した地球のエネルギー収支が維持されています。


このようなエネルギーの流れに関与する地球の全システムを気候系と呼び、また大気の平均状態を気候と呼びます。


気候は様々な要因になり、様々な時間スケールで変動しています。


この気候変動の要因には、自然と人為的な要因があります。



現代社会で起きている気候変動は人為的な要因です。

その要因には、二酸化炭素などの温室効果ガス(気体)の増加やエアロゾル(空気中に漂う微細な粒子のこと)の増加、森林破壊などがあります。



この温室効果ガスの増加が地上気温を上昇させます。


この事が地球温暖化の原因となっている。

地球温暖化により、北陸の米が美味しくなったと発言した国会議員がいるようだが、とんでもない発言である。


記録のために記しますが、その発言者は「麻生太郎自民党国会議員」です。


問題になり得るような発言は如何なものかと思う。


地上気温が上昇した結果、森林破壊などの影響による植生の変化は、水の循環や地球表面の日射の反射量に影響を及ぼしている。



産業革命(1760~1840年)後、さらに大量の石油や石炭などの化石燃料の消費による、大気中の二酸化炭素濃度の増加による地球温暖化が拡大し続けた。


産業革命とは、18世紀半ばから19世紀にかけて起こった一連の産業の変革と石炭利用によるエネルギーの革命、それに伴う社会構造の変革のことである。


気候変動、地球温暖化の要因を招いたのは先進国とされる国々の過剰な、開発、生産などに伴って生じた人為的な要因であり、先進国によって気候変動はもたらされたと言っても過言ではないだろう。


その事は紛れもない事実であり、また資本主義社会の発展が招いたことだと言えるだろう。


自然環境保護を唱える一方で、自然環境を破壊していると言う矛盾がある。

気候変動は今、先進国や途上国を問わず、世界中の人々の安全を脅かす、大問題となっているのです。



関連記事No,547
資本主義社会がもたらした地球環境破壊