緑のお医者の徒然植物記

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2020/05/16

アンネのバラに込められた思い No.218

アンネのバラに込められた思い

「アンネの日記」の著者として知られるユダヤ系ドイツ人の少女
アンネリース·マリー·フランク
(1929年6月12日生)

オランダにやって来てドイツによる占領時に、隠れ家で暮らした日々について
綴った日記、13~15歳までつけていた日記(アンネの日記)。

五歳になるまで、アンネはフランクフルト郊外のアパートに、両親と姉(マルゴット)と共に住んでいました。

1933年ナチスが権力を握った後、仕事上の事で父親オットー·フランクはアムステルダムに亡命しました。

その後残りのフランク一家もオットーに続きました。

アンネは祖父母の元に滞在した後家族の最後の一人として1934年2月にアムステルダムに到着した。

ドイツ軍は1940年5月にアムステルダムを占領。

ドイツ当局者は、ドイツ軍占領下のポーランドにあるアウシュビッツ·ビルケナウ及びソビボル絶滅収容所にユダヤ人を移送しました。

アンネとその家族はアパートでの潜伏生活を余儀なくされ、2年間個人経営会社の事務所裏にある、秘密の屋根裏アパートに住んでいました。

このアパートのことを、アンネは日記の中で「秘密の隠れ家」と呼んでいました。


 
「アンネ·フランク」


父親の友人や同僚は、自らの命を危険にさらしながらも、フランク一家のために事前に、隠れ家の準備を手助けし、食料や衣類を持ち込んでいました。


1944年8月4日、匿名のオランダ人からの密告を受けたドイツ秘密警察はこの隠れ家を発見しました。

1ヶ月後、フランク一家と一緒に潜伏していた4名(ユダヤ人)はドイツ占領下のポーランドにある、絶滅収容所のアウシュビッツ行きの列車に乗せられました。


まだ若かったアンネと姉は、労働力として選別され、ドイツ北部のベルゲン、ベルゼン強制収容所に移送されました。

その後、アンネと姉はベルゲン、ベルゼン収容所を解放するわずか数週間前にチフスのため、この世を去った。


まだ15歳と言う短い生涯だった。アンネの父親オットーだけが、家族の中で

ひとり、この戦争を生き延びたのです。

アンネ·フランクは、ホロコーストの犠牲となった100万人以上の子どもたちの失われた約束の象徴となったのです。



◉ホロコーストとはギリシャ語で「すべてを焼き尽くす」と言う意味でナチス·ドイツ政権と協力者による、ユダヤ人の組織的、官僚的、国家的な迫害及び大量虐殺(約600万人)を指す。


        ①(アンネのバラ)


自然を愛し、特にバラが好きだったアンネ·フランクの「形見」として捧げられたのがアンネのバラである。

ベルギーのバラ育種家であるヒッポリテ·デルフォルヘ氏により作出された。


★咲き始めから咲き終わるまでの間花色が変化する。

生育環境により、七色にも変化するとても美しいバラです。

秋に咲く状態が個人的には好きです。



                         ②(アンネのバラ)

1960年
souvenir  d'Anne Frank(アンネ·フランクの形見)として品種登録された。

品種名 スブニール·ドゥ·アンネフランク

日本ではアンネのバラ、アンネの思い出と呼ばれている。




        ③(アンネのバラ)

日本には、1972年のクリスマスの日にアンネの父親オットー·フランク氏より寄贈された。


◉アンネのバラ教会

世界で唯一のアンネ·フランクを記念し資料館を運営する教会である。

資料館には、アンネの父親から寄贈された、アンネの貴重な写真類に加ほとんど現存していないアンネの遺品を所蔵している。



                       ④(アンネのバラ)


庭にはアンネ像を囲むようにしてアンネのバラが植えられている。

アンネのバラ教会


兵庫県西宮市甲陽園西山町4-7

世界平和を願うすべての人々の象徴としアンネのバラが愛されることを願う。

心を込めて世界へアンネの憧れを胸に………

✿年間の記録写真として



         「アンネのバラ3月5日撮影」


   「5月14日撮影」









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