緑のお医者の徒然植物記

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2022/09/02

戦後も生き続ける戦災樹木たち No,599

 巨樹が問いかける戦争と平和

第二次世界大戦中、100万本以上の巨木が一年くらいの間に伐採され、木造船などに使われた。


戦争が多くの巨木を切り倒したのである!


空襲の惨禍を潜り抜け、その傷痕を今も伝える「戦災樹木」が東京の各地に存在している。

樹齢500〜600年と推定されるその樹は、約10万人が犠牲になった1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲による火災で焼け、黒い焦げ痕を今も見ることができる。


     「飛木稲荷神社のイチョウ」

所在地=墨田区押上2丁目39-6

東京都墨田区の飛木(とびき)稲荷神社境内に立っている天然記念物のイチョウの木である。

物言わぬ戦争の生き証人である。


当時、自宅近くの空き地に避難していた田中稔さんは、イチョウの木が炎に包まれる様子を鮮明に覚えていました。

最初は神社の社務所の裏から燃え始め、それから本殿、神楽殿と燃え広がり、そのうちご神木のイチョウにも火が移って、葉がない落葉期だったので燃えやすく、すぐに燃え上がったと言う。

焼け焦げてしまったイチョウの木は、数年後には新しい芽を出し、そして今も同じ場所に立ち続けている。

大田区の新田神社にあるご神木のケヤキは、幹の表面が大きく裂け、焼け焦げた痕が見られるが、今も生き続けるその生命力ある樹に触ると、ご利益が得られるとされ、パワースポットとして地域の人から親しまれています。


       「新田神社のケヤキ」

所在地=東京都大田区矢口1丁目21


東京大空襲などの空襲で被害を受けた「戦災樹木」は東京23区にどれだけ残っているのか調査され、202本在ることがわかりました。

一方で、判断できない樹木も多く存在します。

空襲によって焼失した地域と重なるように点在し、被害が甚大だった下町一帯で、その数は多く見つかっている。

湯島聖堂や上野公園、富岡八幡宮など、大規模な緑地がある場所にまとまって存在している事も確認されました。

戦後、長い時が流れ、町並みも大きく様変わりした東京で、200本以上の樹木が残っていたのです。

なかには、戦災樹木としての証言が得られなかった樹木も150本にものぼっているが、判断できぬまま伐採される樹木もある。


戦災樹木は、当時何があったかを今に伝える身近な存在でもある。

調査と保護がますます必要となっているのではないだろうか。

しかし、文化や芸術に乏しい傾向のある日本では、確実に護られていくという確証はないかも知れません。


広島、長崎市では原爆で被爆した樹木の保全が進んでいる。


広島市は1996年度から、被爆樹木の登録制度を開始し、爆心地からおよそ半径2キロ以内で、被爆樹木約160本を被爆樹木として登録し、定期的に樹勢を観察、調査を行っています。

被爆して今も生き続ける「アオギリ」という落葉樹が、広島平和記念公園の一角に存在しています。


       「被爆樹木、アオギリ」

所在地=広島市中区中島町1-2
広島平和記念公園


平和記念公園は戦前からある公園ではなく、戦後新たに作られた公園で、幕末から明治、大正にかけてこの場所は繁華街であったと言われています。


長崎市には今も生き続ける「被爆樹木」が存在する。

1945年8月9日に投下された原子爆弾で被爆し、今尚その場所に立ち続けているクスノキ


       「山王神社の大クス」

所在地=長崎市坂本2丁目6

長崎クスノキプロジェクトは、長崎の「被爆樹木」の保全、保護を行っています。


長崎市では46本の樹に年一回の健康診断を実施している。
被爆樹木の所有者に保存整備費を補助する制度がある。

個人所有の樹木にも被爆した樹木を紹介する表示板を設けています。

将来に渡り、被爆の悲惨さを伝え続ける貴重な遺構として大切に保存すべきだと、被爆樹木の保全の意義を唱えています。


空襲や原爆の傷痕を残す樹木は、戦後の「生き証人」としてこれからも戦争とはなにか?真の平和とは何であるかを問いかけ続けることだろう。